■第015話―府中が泣いたマサトコール「ウイニングチケット列伝」

ウイニングチケット列伝

 1990年3月21日生。牡。黒鹿毛。藤原牧場(静内)産。
 父トニービン、母パワフルレディ(母父マルゼンスキー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
 通算成績は、14戦6勝(3-5歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、弥生賞(Gll)、京都新聞杯(Gll)、ホープフルS(OP)。

 ゴールの瞬間、実況はこう絶叫した。『勝ったのは柴田政人ウイニングチケット! 』

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『政人にダービーを勝たせるために』

 わが国の中央競馬における最高のレースは何か・・・そう聞かれた時に、最も多くのホースマンがその名を挙げるのが日本ダービーであろうことは、想像するまでもなく明らかであろう。1932年の「東京優駿大競走」に端を発する日本ダービーの歴史は、英国のクラシックを範にとって発展してきたわが国の中央競馬の発展の歴史そのものだった。戦争による中断はあったものの、同じ年に生まれたサラブレッドたちが、同世代で1頭にしか与えられることのない「日本ダービー勝馬」の称号と名誉を得るために繰り広げてきた数々の死闘は、多くの伝説を生み出してきた。

 ダービーの歴史が区切りの第60回を迎えた1993年日本ダービーも、日本ダービー・・・そして日本競馬の歴史に残る名勝負のひとつに数えられている。ハイレベルといわれた有力馬、そしてそれぞれの騎手たちの激しい駆け引きと死力を尽くしての激戦は、今なお多くのファンの語り草となっている。そんな歴史に残る死闘を制し、第60代日本ダービー馬の栄冠に輝いた名馬が、ウイニングチケットである。

 ウイニングチケットの場合、彼を語る際には必ず

柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

という評価とともに語られるという特徴がある。日本競馬界の歴史を紐解いても、彼と同じような扱いを受けているサラブレッドはそう多くない。この点において、ウイニングチケットというサラブレッドは、日本競馬界の中でも特異な存在である。

 柴田騎手は、日本競馬の歴史の中で、独特の地位を占める存在である。柴田騎手の騎手としての成績は、JRAの歴代5位となる1767勝を挙げており、その実力、技術において超一流だったことは疑いの余地がない。だが、柴田騎手の最大の特徴は、数字によって表される実績というより、彼自身の「侠気」ともいうべきその誠実な人柄とされる。

 一流騎手は、ある程度勝てるようになると、フリーとなってなるべく多くの厩舎から、勝てる馬の騎乗依頼をひとつでも多く受けようとする・・・そんなドライな思想が競馬界の主流となりつつある中で、柴田騎手は、デビュー時から所属した高松厩舎の所属騎手であり続けた。また、有力馬の場合、大レースの直前にそれまで騎乗していた実績のない騎手から実績のある騎手に乗り替わることは、古今東西珍しいことではない。だが、柴田騎手はそれまで馬と戦いをともにし、育ててきた騎手の心を思ってそうした依頼を嫌い、自らが大レースで騎乗するのはそれまでも自らと戦いをともにしてきた馬・・・という理想に忠実であろうとした。

 そのような騎乗スタイルは、勝利数や重賞、Gl勝ちといった数字によって表される実績を積み上げるためには、マイナス材料としかなり得ない。現に、柴田騎手が騎手として晩年を迎えるころには、彼のようなスタイルはもはや旧時代の遺物としてほぼ淘汰されつつあった。だが、柴田騎手は、そのことを誰よりも理解していながら、あくまでも自らの思い・・・信念に忠実であり続けた。そして、ファンもまた、そんな無骨で不器用な生き方しかできなかった彼を愛した。

 そんな古風な男が最後までこだわったレースが、日本ダービーである。時代の変化とともに、ドライになっていく一方の日本競馬の中で、最後まで自分の生き方を貫きながら超一流の実績を残してきた彼が、どうしても手にすることのできなかった勲章・・・皮肉なことに、それが日本競馬の伝統を象徴し、最高のレースとして位置づけられてきた日本ダービーだった。年齢を重ね、騎手生活が残り少ないことを悟って

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい・・・」

と言い続けた柴田騎手の熱情にもかかわらず、ダービーの女神は彼を袖にし続けてきた。

 そんな柴田騎手に、「ダービー・ジョッキー」の栄光を与えたのが、ウイニングチケットである。それまで幾度もの挫折と危機を経てようやく最高の栄誉を手にした彼ら・・・柴田騎手とウイニングチケットは、間違いなく日本競馬史上最高の名場面の主役として輝いていた。ゆえに人はウイニングチケットのことを

「政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

と呼んだのである。

 今回のサラブレッド列伝では、日本ダービーの歴史の1ページを飾ったサラブレッドであるウイニングチケットの、柴田騎手とともに歩んだ戦いの軌跡に焦点を当ててみたい。

『眠れる名血』

 ウイニングチケットは、過去にサクラユタカオーサクラスターオーなど多くの名馬を生産した歴史を持つ静内の名門牧場・藤原牧場で生まれた。その血統は、父が凱旋門賞トニービン、母が未出走馬パワフルレディというものである。

 ウイニングチケットが出現するまでの間、繁殖牝馬としてのパワフルレディの成績は、決して芳しいものではなかった。マルゼンスキーの娘であり、名牝スターロッチ系の末裔・・・という血統背景自体は魅力的なものだったが、問題は肝心の産駒成績である。ウイニングチケットの兄姉たちにはろくな成績を残した馬がおらず、中には「尻尾がない馬」までいた。

 しかし、藤原牧場の人々は、毎年期待を裏切り続けるパワフルレディとその子供たちを見ながら、

「こんな筈はないのに・・・」

と思い続けていた。パワフルレディの血統、そして彼女自身に眠っている底力を引き出せないのはなぜなのか、どうすればそれらを引き出すことができるのかを、懸命に分析してみた。

 そして藤原牧場の人々がたどり着いた結論は、それまで体の柔らかそうな種牡馬ばかりと交配していたことがいけなかったのではないか、というものだった。パワフルレディ自身はたいへん柔らかい体を持っており、藤原牧場では、その長所をさらに伸ばそうとして、それまでは、やはり体の柔らかい種牡馬ばかりを交配していた。だが、実際に生まれてくるのは体が柔らかいというよりは、競走馬としての丈夫さ、頑丈さに欠ける子供たちばかりだった。そこで一念発起した藤原牧場の人々は、それまでの配合とは反対に、体が堅いタイプの種牡馬を付けてみることにした。

 パワフルレディの新しい配合相手として選ばれたのは、社台ファームがポスト・ノーザンテーストの担い手として輸入したばかりの新種牡馬トニービンだった。トニービンは、欧州競馬の最高峰である凱旋門賞(国際Gl)を勝った名馬である。トニービンは、引退前にジャパンC(国際Gl)に出走して敗れているが、藤原牧場の当主である藤原悟郎さんはその際、パドックトニービンの馬体の素晴らしさに目を引かれ、シンジケートに加入していたのである。

『名伯楽の条件』

 最初、トニービンパワフルレディとの間に生まれたウイニングチケットは、「鹿のような」線の細い馬格しかなかったため、牧場の人々をがっかりさせた。しかし、そんな華奢な子馬の資質を誰よりも早く見抜いた男がいた。それは、馬の出産シーズンを迎え、少しでも多くの生まれたばかりの当歳馬を見てその資質を見極めるため、北海道を飛び回っていた伊藤雄二調教師だった。

 伊藤師によれば、馬の資質を図る上で重要なのは、生まれた直後の立ち姿であるとのことである。生まれた直後の姿こそがその馬の持って生まれた素質を最も素直に反映している、というのが伊藤師の考え方であり、ゆえに伊藤師は、少しでもいい馬を確保するため、このシーズンは神出鬼没で様々な馬産地を歩き回る。そんな伊藤師が藤原牧場へとやってきたのは、ウイニングチケットが生まれた3日後のことだった。

 伊藤師は、生まれたばかりのウイニングチケットの様子をかなり長い間つぶさに見ていたかと思うと、やがて何も言わずに栗東の伊藤厩舎へと帰ってしまった。しばらくして伊藤師が再び藤原牧場にやって来た時には、もうウイニングチケットを厩舎に迎え入れるための手配が何もかも終わっていたという。

 当時、トニービンの産駒は海のものとも山のものとも知れないため、初年度産駒は入れる気がなかったという伊藤師だが、ウイニングチケットを見た瞬間

「この馬は走る! 」

という直感が走ったという。伊藤師とウイニングチケットがここで出会ったことにより、ウイニングチケットの競走馬としての運命は、大きく動き始めた。

『選ばれた男』

 やがてウイニングチケットは、伊藤師の見立てに違うことなく、同じ年に生まれた馬たちと並んでも決して先頭を譲らない高い能力、そして勝負根性を見せるようになっていった。

 2年後、3歳になったウイニングチケットは、予定どおりに伊藤厩舎に入厩することになった。ちなみに、「ウイニングチケット」というのは彼の競馬場における競走名だが、厩舎関係者の間では「チケ蔵」と呼ばれていたとのことである。

 それはさておき、入厩してきたウイニングチケットの成長ぶりは、伊藤師の期待を裏切らないものだった。

「ゆくゆくは、大きな仕事のできる馬だ」

 伊藤師は、この時既にはっきりと確信していた。

 だが、そのためにはいくつかの条件があった。まず、ウイニングチケットが属するスターロッチ系全体の特徴として、ある程度の距離がなければよさが出てこない。スターロッチ系の馬ではハードバージ皐月賞を勝ったこともある伊藤師だが、他の厩舎が同じ牝系の馬を短距離ばかりに使って失敗しているのを見ながら、歯がゆい思いをすることもあった。気の勝った気性だけに短距離で使いたくなる血統であることは確かだが、易きに流れては大成できない。また、この馬の瞬発力を引き出すためには、ある程度抑える競馬をさせる必要がある。気性に任せて前へ行く競馬をしたのでは、やはりうまくいかないだろう。だが、それらの条件さえクリアできれば、ウイニングチケットは伊藤師に「ダービー」さえも意識させてくれる、それほどの器と思われた。

 これらのことも考えた上で、伊藤師は、ウイニングチケットの主戦として、既にある騎手を擬していた。その騎手は関東を本拠地としており、関西に拠点を置く伊藤厩舎とはそもそも本拠地からして異なる。だが、そのことを差し引いても、伊藤師はその騎手にウイニングチケットへ乗ってもらいたいと考えた。それが、ウイニングチケットにとっても、その騎手にとっても最善であろう、と。伊藤師が選んだ騎手とは、柴田政人騎手だった。

『熱情』

 伊藤師は、まずウイニングチケットのデビュー戦を札幌での新馬戦に決めた。柴田騎手は、毎年夏競馬では、北海道で騎乗することが多い。中央開催が始まってからでは、柴田騎手に本拠地の違う伊藤厩舎の馬に乗ってもらえる可能性は低くなる。

 伊藤師は、最初から柴田騎手以外の騎手をウイニングチケットに乗せる気はなかった。当時の競馬界では、柴田騎手は同期の岡部幸雄騎手と並ぶ関東の、そして日本の騎手界の双璧とされていた。だが、岡部騎手は「岡部乗り」という言葉があるように、どちらかというと先行しての好位からの競馬を得意とする。その点柴田騎手は、岡部騎手とは対照的に、むしろ中団より後ろから追い込む競馬でいい味を出すタイプである。伊藤師の見立てでは、ウイニングチケットの力を引き出せるのは、柴田騎手の騎乗だった。

 だが、柴田騎手とウイニングチケットのコンビが、そう簡単に結成されたわけではない。デビュー戦では柴田騎手が騎乗したウイニングチケットだったが、この日は5着に敗れてしまった。距離不足、不良馬場など、不運な要素がいくつも重なっていたことは事実だが、負けは負けである。柴田騎手は、伊藤師が関西からわざわざ自分のために連れてきてくれた素質馬を負けさせてしまったことに責任を感じた。さらに、伊藤師は次週の新馬戦に折り返しでウイニングチケットを使うことにしたが、この時彼は、以前から海外遠征の予定を入れてしまっていた。

 ウイニングチケットは、柴田騎手ではなく横山典弘騎手で初勝利を挙げた。それでも伊藤師は、柴田騎手を諦めない。次走の葉牡丹賞では、再度柴田騎手に騎乗を依頼した。ところが、この日柴田騎手には、別の馬からも騎乗依頼が入っていた。そして、柴田騎手は、その馬の調教師に義理があり、その調教師から強く騎乗を言われると、断ることができない立場にあった。柴田騎手は、今度もウイニングチケットの騎乗を辞退した。

 そこで伊藤師は、考えた。もし新馬戦で勝った横山騎手を引き続き乗せたり、本拠地が関西の騎手を乗せたりしたら、柴田騎手はこの後頼んでも、騎乗を辞退するだろう。義理堅さで知られる柴田騎手が、ウイニングチケットに2戦続けて騎乗した若い横山騎手から「奪ったり」、関西の調教師に依頼されて先のことも期待するであろう関西の騎手から「横取りしたり」するはずがない。

 そこで伊藤師は、あくまでも柴田騎手の「代打」として、関東の若手でたまたま予定が空いていた田中勝春騎手に騎乗させた。田中騎手は、最後方から向こう正面一気に進出して直線では後続をみるみる突き放すという豪快な競馬でウイニングチケットを勝たせたが、伊藤師の意中の人は、あくまでも柴田騎手だった。

『三顧の礼』

 柴田騎手は、伊藤師の依頼になかなか首を縦に振ろうとはしなかった。彼は、自分が勝たせることができなかった新馬戦へのこだわり、関東の自分が主戦騎手となることで生じるローテーションの調整の難しさなどを気にしていた。・・・だが、伊藤師の思いはひとつだった。

「政人、そんなことは問題じゃないんだ・・・」

 伊藤師の思いとは、ウイニングチケットにダービーを勝たせたい、そして柴田騎手にダービーを勝たせたい・・・ただそれだけだった。柴田騎手がダービーに強い思い入れを持ちながら、この日まで未勝利のままだったことは、当時のホースマンなら知らぬ者がない公然の事実だった。

 それでもなかなか首を縦に振らない柴田騎手に対し、伊藤師は行動で自分の思いを示した。3戦2勝のオープン馬であるウイニングチケットの次走は、関西のラジオたんぱ杯3歳S(Glll)と予想されていた。ところが伊藤師は、そのレースを捨ててウイニングチケットを中山のホープフルS(OP)へと連れていった。ふたつのレースを比べると、ラジオたんぱ杯の方が輸送もないし、賞金も高い。それでもこのレースを選んだのは、表向きは「中山2000mの皐月賞と同じコースで行われるから」と言われたものの、実際には伊藤師が柴田騎手に乗りやすいようにした配慮にほかならなかった。

 そして、伊藤師の熱情に打たれた柴田騎手は、ついに覚悟を決めた。通算4戦目となるホープフルSでは、ウイニングチケットの鞍上には、デビュー戦以来の柴田騎手の姿があった。柴田騎手は、そこまでして自分の鞍上にこだわってくれた伊藤師の恩に報いるため、こう約束した。

「来年のクラシックは、この馬で行きます。これからは、私の全部の騎乗予定は、この馬に合わせて決めさせてもらいます・・・」

 こうしてウイニングチケットの主戦騎手は、柴田騎手に決まった。柴田騎手は、伊藤師の期待にこたえて後続を3馬身突き放す楽勝を収め、彼を三顧の礼で主戦騎手に迎えた伊藤師を満足させた。彼らの第60回日本ダービーへと続く旅は、ここに始まったのである。

『名騎手の原風景』

 柴田騎手は、1993年牡馬クラシック路線・・・そして日本ダービーに向けた戦いを、ウイニングチケットとともに歩むことを決意した。柴田騎手にとって、日本ダービーとは騎手になった日からの憧れであり、生涯の目標でもあったが、そうであるにもかかわらず、彼が積み重ねてきたのはダービーとの因縁を物語るエピソードであり、また敗戦と苦渋の歴史だけだった。

 柴田騎手のダービーをめぐる・・・というより騎手としての生き方の原点となったのは、柴田政人騎手の原点は、若き日の「アローエクスプレス乗り替わり事件」だといわれている。当時デビューして4年目だった若き日の柴田騎手は、所属する高松三太厩舎が送り出すクラシック候補の逸材・アローエクスプレスと出会った。朝日杯を勝って3歳王者となったアローエクスプレスは、この年の関東4歳世代のエースとして皐月賞、そしてダービー戴冠へと期待が持たれていた。クラシックの前哨戦であるスプリングSでは、後に宿命のライバルと呼ばれることになるタニノムーティエに屈したものの、柴田騎手は必ずの雪辱を誓い、皐月賞、そして日本ダービーでどうやってタニノムーティエを打ち負かすか、そればかりを考えていた。

 ところが、皐月賞を直前にした柴田騎手は、突然師匠でもある高松師に呼び出され、その場でアローエクスプレスからの降板と、当時関東一の騎手とされていた加賀武見騎手への乗り替わりを命じられてしまった。柴田騎手にとっては寝耳に水の、突然の降板劇だった。

 若き柴田騎手は、この乗り替わりにはどうしても納得できなかった。ミスをして降ろされるのなら仕方がない。確かに自分はスプリングSタニノムーティエに敗れた。だが、それはスプリングSの展開のあやであり、騎手である自分のミスではないということは、彼本人だけではなく競馬界の大勢、そしてほかならぬ高松師も認めるところだった。それでも柴田騎手は、どんな展開になっても勝てるよう、クラシックでの雪辱ばかりを考えていた。そんな矢先の乗り替わりである。

 師匠を敬愛することでは、誰にも負けない柴田騎手だった。だが、この時だけは怒った。泣いた。

「今日はお前のせいじゃない」

 スプリングSの後、そう言ったのは嘘だったのか。飲めない酒を無理矢理飲んで怒りと悔しさを忘れようとしたものの、そうするには彼の怒りと悔しさは大きすぎた。それどころか、酒の勢いで高松師のもとへ乗り込み、乗り替わりに涙ながらに抗議した。「生意気を言うな」とぶん殴られるなら、それでもいいと思っていた。

『涙』

 ・・・だが、実際の高松師は、柴田騎手が想像したようにぶん殴るどころではなかった。柴田騎手が目にしたのは、予想もしていなかった高松師の熱い涙だった。

「政人、誰よりもアローにお前を乗せてやりたいと思っているのは、この俺だ。だが、アローはお前の馬じゃない、俺の馬でもない、関東のみんなの馬だ。関東一のアローが、関西一のタニノムーティエに勝つためには、関東一の騎手じゃないといかん。悔しかったら、政人、加賀武見を超えてみい」

 柴田騎手は、高松師の自分への思いを全く察することができなかった不明を恥じた。結局、アローエクスプレスのクラシック戦線は、柴田騎手ではなく加賀騎手で臨むことになった。

 加賀騎手とともに皐月賞日本ダービーへと進んだアローエクスプレスは、そのいずれでも宿敵タニノムーティエに敗れ、クラシック制覇は果たせなかった。アローエクスプレスのダービーを、柴田騎手は落馬負傷のため病院のベッドで見ることしかできなかったが、かつての愛馬がライバルの前に敗れ去っていく光景をただ見ていることしかできなかった。

 さらに、柴田騎手は、加賀騎手が都合がつかないトライアルでは、本番でアローエクスプレスに乗れないことが分かっていても、アローエクスプレスに乗らなければならなかった。自分が乗ったトライアルを勝って菊花賞へ向かうアローエクスプレスを見送る彼の目には、果たして何が映っていたのだろうか。この時の悔しさは、柴田騎手の「それから」を決定づけることになった。

 柴田騎手は、自分をアローエクスプレスから降板させる際に高松師が流した涙の意味、そしてそれまで手塩にかけてきた馬を他の騎手に奪われる悔しさを身をもって思い知った。彼は、一方では師の思いに応え、自らも二度と悔しい思いをしないために「降ろされない」実力を持つ一流騎手になろうと決意する反面で、自分が一流になっても、若手騎手にそんな思いをさせるようなことはするまい、と心に決めた。

 やがて柴田騎手は、若き日の決意とおり、関東を代表する騎手に成長していった。柴田騎手は、「政人」というと個性派騎手として知られた吉永正人騎手の「正人」と区別がつかないため、「柴政」と呼ばれることが多かった。そんな「柴政」の名前は、かつて関東の名手としての称賛をほしいままにした「加賀武見」に並び、そしてついには超える存在となっていった。

 だが、日本を代表する名騎手となった後も、柴田騎手は若き日の誓いを守り続けた。誰よりも義を重んじた柴田騎手は、自分を育ててくれた高松厩舎から離れようとはせず、師匠である高松三太師の死後は、その息子の代に至るまで高松厩舎の所属騎手であり続け、引退までフリーとなることはなかった。また、柴田騎手が他の厩舎から依頼を受けるときでも、大レースの直前に、それまで他の騎手が手塩にかけてきた馬を奪うようなことは、決してしなかった。他の騎手の馬を奪わないということは、それだけいい馬に乗るチャンスが減ることを意味する。柴田騎手自身、そのことは誰よりもよく分かっていた。それでも彼は、己の節を曲げることなく、自分の育ててきた馬、あるいは他の騎手が選ばなかった馬で大レースを次々と勝つことで、自分自身の実力を証明していった。当時の競馬界で柴田騎手と並び称されることが多かったのは、同期の岡部騎手である。成績的には勝ち鞍の数、格とも岡部騎手を若干下回る彼が、常に岡部騎手と並ぶ関東の名手とみなされ続けたことには、そんな背景があった。

『遠い悲願』

 こうして名騎手への道を歩んでいった柴田騎手だったが、日本競馬の最高峰である日本ダービーへの道は、遠いままだった。デビューから26年目を迎え、ダービー騎乗も18回を数える柴田騎手に、ダービー制覇のチャンスがなかったわけではない。1978年にはファンタスト、85年にもミホシンザン皐月賞を制してダービーへ駒を進めるかに思われたこともある。

 だが、柴田騎手は18回負け続けた。ファンタストは、直前追い切りの後に腹痛を発症し、本調子で走れないまま惨敗した。ミホシンザンは、骨折によってダービーには出走することさえできなかった。その後菊花賞も勝ったミホシンザンは、「幻の三冠馬」となった。だが、そこに欠けていたのは、柴田騎手にとって一番大切なレースだった。

 柴田騎手が以前からダービー制覇に強いこだわりを見せていたことは、競馬界の常識となっていた。1984年にダービーをはじめとする無敗のまま三冠を制した「絶対皇帝」シンボリルドルフの主戦騎手には、最初柴田騎手の名前も挙げられていた。だが、後にシンボリルドルフの新潟デビューが決まったことから、主戦騎手は夏競馬では新潟を本拠地にしていた岡部騎手の手にわたることになった。すると、後にシンボリルドルフはダービーをあっさりと勝った。そのためシンボリルドルフの馬主兼生産者である和田共弘氏が柴田騎手を捕まえて

「済まなかったな、政人」

と冗談を言ったところ、柴田騎手は運命の悪戯に本気で悔しがった、とも伝えられている。

 不思議な運のなさ、めぐり合わせの悪さによってチャンスを逃し続けているうちに、柴田騎手は騎手としては老境に入る44歳を迎えていた。「騎手生活の終わり」を意識する年齢になっても、いまだ宿願は果たせていない。ダービーに乗るチャンスが、自分にあと何回残されているのだろうか。そんな思いもあって、いつしか彼からは、

「ダービーに勝ったら騎手をやめてもいい」

 そんな言葉まで飛び出すようになっていた。

 伊藤師は、だからこそ柴田騎手のために、ウイニングチケットを用意した。関西の調教師である伊藤師も、関東の柴田騎手の人柄と実力を深く認めていた。そうであるがゆえに、彼は関東と関西の枠を超えて、なんとしてもウイニングチケットと柴田騎手のコンビを実現させようとした。ウイニングチケットでダービーを勝ち、柴田騎手にダービーを勝たせるために。

『見えてきた構図』

 ウイニングチケットには、ホープフルS(OP)での圧勝により、「クラシックの主役」という声がかかり始めた。

 もともとは、彼らの世代の中でクラシック戦線の最有力候補と言われていたのは、ビワハヤヒデだった。後にGlを3勝、それもすべて圧倒的な強さで制覇するビワハヤヒデは、3歳時から熱発明けのデイリー杯3歳S(Gll)をレコードで圧勝するなど、大器の片鱗を見せていた。

 だが、そのビワハヤヒデ朝日杯3歳S(Gl)、そして共同通信杯(Glll)で続けて2着に惜敗したことで、その様相は大きく変わりつつあった。「ビワハヤヒデで絶対」という構図は既に崩れ、高いレベルでの混戦、という予想に変わったのである。そこでビワハヤヒデに並び、追い抜く勢いで評価を高めたのが、ウイニングチケットだった。

 ビワハヤヒデは、共同通信杯4歳Sの敗北を受けて、主戦騎手が岸滋彦騎手から岡部騎手に交替していた。岡部騎手が得意とする戦法は、「先行、好位からの抜け出し」という堅実な、しかしある意味で「面白味のない」レースだった。それに対して新たに台頭してきたウイニングチケットは、大向こう受けする派手な差しを得意としている。それぞれの騎手を象徴する対照的な戦法をとる彼らの戦いは、ファンにとって非常に分かりやすい関心の的となった。

 また、この時点ではビワハヤヒデウイニングチケットの評価に及ばないものの、年の暮れにラジオたんぱ杯3歳S(Glll)を勝って、クラシック戦線に名乗りをあげたナリタタイシンなど、さらなる新興勢力も次々と台頭していた。こうして、93年牡馬クラシック戦線は、その幕を開けたのである。

『そして戦いの幕は上がり・・・』

 ウイニングチケットのクラシック戦線は、皐月賞トライアルの弥生賞(Gll)から始まることになった。弥生賞は、毎年皐月賞日本ダービーの有力候補が終結して激戦となることが多く、この年も例外ではなかった。ビワハヤヒデの姿こそないとはいえ、ラジオたんぱ杯3歳Sの覇者ナリタタイシン、後に菊花賞(Gl)、天皇賞・春(Gl)で2着に入るステージチャンプなどが揃った顔ぶれは、前哨戦というには勿体ないものだった。

 そんな充実した出走馬たちの中で、ウイニングチケット単勝330円と抜けた支持ではなかったとはいえ、堂々の1番人気に支持された。

 1番人気で他にマークされる立場になったウイニングチケットだったが、彼の戦い方そのものは変わらなかった。先行馬たちが先頭を激しく争う中、ウイニングチケットは自分の競馬に徹し、馬群から少し離れた位置にいるナリタタイシンからさらに遅れた一番後ろにつけたのである。

 ウイニングチケットが動いたのは、レースの中間地点である1000m地点の付近だった。ウイニングチケットと柴田騎手は、一番後ろからマクリ気味に進出を開始した。

 1番人気のウイニングチケットが動いたことによって、レースは全体が動き始めた。ウイニングチケットをマークしていたナリタタイシンもまた、先に動いたウイニングチケットを追いかけて、ぴったりとついてきていた。

 最後の直線に入ると、ウイニングチケットは前を行く馬たちをまとめてかわし、一気に突き抜けた。後方からは、そんなウイニングチケットの末脚が鈍ったところを一気に差し込もうと、ナリタタイシンたちも襲ってくる。・・・だが、この日のウイニングチケットは、周囲とはまったくものが違っていた。

 直線での末脚勝負となったウイニングチケットナリタタイシンとの戦いは、ウイニングチケットが追いすがるナリタタイシンを逆に突き放し、2馬身の差をつけて快勝した。1番人気でマークされる展開となりながら、マークに徹してきた相手を直線でさらに突き放すという競馬は、着差もさることながら、実質はそれ以上の圧勝だった。

 ウイニングチケット弥生賞を制する一方で、若葉S(OP)から始動した最大のライバル・ビワハヤヒデは、比較的相手関係に恵まれたとはいえ、鞍上に新しく迎えた岡部騎手とのコンビで危なげのない勝利を収めて皐月賞へと駒を進めた。皐月賞の前評判は「BW対決」「岡部対柴政」の様相が強くなっていった。、「花の15期組」と称された同期でデビューし、「天才」と呼ばれた関西の福永洋一騎手が不慮の事故で引退を余儀なくされた後はともに競馬界を引っ張ってきた2人の対決に、競馬界は沸いた。

『思いがけぬ作戦』

 ウイニングチケット弥生賞優勝後、その調整は至極順調に進み、いよいよクラシック本番の開幕を告げる皐月賞(Gl)を迎えることになった。

 皐月賞を見守るファンは、ホープフルS弥生賞と中山2000mのレースで、柴田騎手とともに豪快な差し切りで連勝してきたウイニングチケットに夢を賭けた。ウイニングチケット単勝オッズは200円で、ライバルのビワハヤヒデを抑え、堂々の1番人気に支持されたのである。彼を支持したファンの望みは、最後方から豪快に追い込むという弥生賞のレースを、皐月賞でも再現することだった。

 しかし、ウイニングチケットの鞍上にいる柴田騎手は、ファンとはまったく別のことを考えていた。彼にはそれまでのレース、特に弥生賞は、たまたま前が激しい流れ、乱ペースになったことから、やむを得ず最後方につける形になったという意識があった。最大のライバルであるビワハヤヒデとの関係でも、常に好位からレースを進められるビワハヤヒデに対して展開次第、能力任せの直線一気の競馬に賭けるのは、あまりにも運否天賦の無謀な賭けである。ウイニングチケットの本質からしても、中団から差す競馬をするのが一番いい、というのが柴田騎手の思いだった。

 この日の柴田騎手は、ウイニングチケットをいつもより前の位置となる中団で、ビワハヤヒデを見ながらの競馬をした。予期せぬウイニングチケットの作戦にファンは戸惑い、かすかなどよめきを見せた。

 スタンドの戸惑いに満ちた雰囲気をよそに、レースのボルテージは徐々に高まっていった。ウイニングチケットは、中団から道中でも徐々に進出を開始した。第4コーナーあたりで早くもビワハヤヒデに並びかけようという勢いのウイニングチケットに、ファンはウイニングチケット弥生賞で見せた豪脚の再現に期待をかけた。直線に入って逃げていたアンバーライオンが一杯になると、それに続く馬たちが一斉に横に広がった。それからは、ウイニングチケットの時間となるはずだった。

『混戦の中、抜け出したのは・・・』

 ・・・しかし、この日のウイニングチケットは、激しい気性を自らコントロールできていなかった。返し馬の時から入れ込み気味だったウイニングチケットは、道中でも落ち着いてくれなかった。この日の位置どりも、中団につけたことまでは柴田騎手の作戦どおりだったが、道中で早めに進出を始めたのは、ウイニングチケットの激しい気性を柴田騎手の手綱をもってしても制御しきれなくなっただけだった。

 道中で力を無駄に消費してしまったウイニングチケットは、直線に入ってからは思いのほか伸びなかった。それどころか、道中は好位でぴたりと折り合っていたビワハヤヒデに、逆に突き放されるほどの勢いの差があった。柴田騎手が懸命に追ったものの、ウイニングチケットビワハヤヒデについていくことができなかった。

 そんな中で、大外からはただ1頭、もの凄い脚を使って追い込んでくる馬がいた。その馬は、ウイニングチケット弥生賞で粉砕したはずのナリタタイシン武豊騎手だった。ナリタタイシンはこの日も弥生賞と同じように最後方での待機策をとり、末脚勝負に賭けていたのである。ナリタタイシンは、あっという間にあえぐウイニングチケットをかわすと、ひとあし早く先頭に立っていたビワハヤヒデに襲いかかった。

 結局、ナリタタイシンビワハヤヒデよりクビ差先んじたところがゴール板だった。その一方で、ウイニングチケットは1番人気を裏切り、屈辱的な5着入線に甘んじた。ガレオンが降着処分を受けたおかげで着順は4着に繰り上がったものの、そんなものは何の慰めにもならなかった。

『ダービーを勝ったら・・・』

 皐月賞のレース後、評論家の間では、一部にウイニングチケット皐月賞について、いつもより前でレースをさせた柴田騎手の騎乗ミスが敗因であるということが語られた。ビワハヤヒデを意識して前で競馬をした分、直線での切れ味がなくなってしまい、ウイニングチケットの持ち味を引き出せなかった、というのがその論調だった。

 柴田騎手は、悔しかった。彼自身には、皐月賞の騎乗を誤ったという意識は、レース後も含めてまったくなかった。だが、負けてしまった以上、どんな批判も黙って受け入れるしかない。勝ったのが弥生賞では完膚無きまでに叩きつぶしたナリタタイシンであり、その戦法も末脚勝負に賭けての後方待機策だったのだから、そう言われることはやむを得ない。柴田騎手は、悔しさを呑み込んで次・・・日本ダービーへの糧とした。日本競馬界の頂点であり、そして自分の人生の悲願としてきたダービーでの巻き返しこそが、彼の「すべて」となった。

 第60回の区切りとなるダービーを控えて、競馬マスコミのビワハヤヒデウイニングチケットナリタタイシンを加えた「BWN」、3頭の有力馬への報道は、みるみる過熱していった。バブル経済の破綻があっても、中央競馬は無関係であるがごとく拡張を続け、大衆の関心も強かった。

 だが、柴田騎手からネタをとろうと集まってきた記者たちは、柴田騎手の思わぬ「お願い」に戸惑うことになった。柴田騎手は、マスコミに対し、ダービーについてはレース前の一切の取材を遠慮してもらいたい、という張り紙をもって彼らを迎えたのである。

 それまでの柴田騎手は、大レースの前や、自分のミスで負けたレースの後でも取材に丁寧に応じることで知られていた。柴田騎手は、競馬サークル内の人間関係のみならず、報道陣、そしてファンとの関係も非常に大切にする騎手としても知られていた。特に大レースの直前に、緊張した精神状態を維持するためには、マスコミの激しい取材攻勢に応じることは、決してプラスにはならない。だが、柴田騎手はマスコミが自分たちとファンとをつなぐ重要な接点であることを知っていた。そうであるがゆえに、取材に応じたくない時でも、彼はファンのために、と自分を犠牲にするのが常だった。

 そんな柴田騎手が、今回はレース前の取材を一切拒否するという。その理由は、「ダービーへ向け、自分の中のテンションを高めたい」というものだった。柴田騎手から取材を拒否されることなど予想していなかった記者たちは、最初は驚き、また若い記者たちの中には、不満を漏らす者もいた。だが、そうした記者たちは、柴田騎手をよく知るベテラン記者によってたしなめられたという。

「あの柴政が取材を拒否する。それがどういうことか、お前らには分からないのか。それが、最後かもしれないチャンスに賭ける思いというものだ・・・」

 記者たちも、柴田騎手の思いを理解し、互いにうなずき合った。ダービーに特別なレースとしての憧れと敬意を抱きながら、不思議なほどにダービー制覇とは縁がなかった柴田騎手。騎手生活27年、19回目の挑戦となる彼に、今後ウイニングチケットほどの有力馬でダービーに挑戦できる機会はもうないかもしれない。彼が今回のダービーに賭ける一期一会の意気込みは、並々ならないものだった。

 柴田騎手から最新のコメントをとることを諦めたマスコミ各社は、代わりに柴田騎手が数年前のダービーでもらした

「ダービーを勝ったら騎手をやめてもいい」

という言葉を、彼のダービーへの情熱を象徴する言葉として伝えた。騎手として晩年を迎えた柴田騎手にとって、その言葉の重みは、強まりこそすれ弱まることはない。取材拒否をしてまで日本ダービーに賭ける古風な男の内面に燃えていたのは、崖っぷちに追いつめられて背水の陣を敷く武士の覚悟だった。

『決戦前夜』

 ウイニングチケット陣営のみならず、ビワハヤヒデ陣営、ナリタタイシン陣営ともダービーに向けての気配は絶好で、本番では最高の調子で三強が相まみえることが予想され、かつ期待された。三強の牙城を崩すことを狙うそれ以外の馬たちも、虎視眈々と下剋上のチャンスを狙っていた。

 この年の出走馬のレベルの高さを物語るのが、出走馬たちの本賞金の高さである。この年のダービー出走のための最低ラインは、1700万円だった。そのため、若草S(OP)勝ちを含めて3勝の実績があった馬は抽選によって、2勝に加えて毎日杯(Glll)2着の実績があった馬に至っては、抽選に加わることすらできずに除外の憂き目をみた。そのような厳しい選別の過程を経てゲートへとたどり着いた出走馬たちの中で三強に続く支持を集めたのは、デビュー3戦目の皐月賞で3着に大健闘したシクレノンシェリフNHK杯(Gll)の勝ち馬でシンザンミホシンザンの血の系譜を継ぐマイシンザン皐月賞ウイニングチケットに先着しながら降着の憂き目にあったガレオンなどだった。他にも、後の天皇賞・秋(Gl)を制するサクラチトセオー、名牝ダイナアクトレスの子で、菊花賞(Gl)と天皇賞・春(Gl)で2着に入るステージチャンプの姿もあった。

 充実した出走馬、白熱する各陣営。ダービーを翌日に控えた競馬界に流れたのは、前年の二冠馬ミホノブルボンを育てた戸山為夫調教師の訃報だった。人々は、時の流れの速さにため息をついたが、それは決戦を前にした感傷にすぎない。翌日の決戦に向けて、時計の針は着実に動いていった。

『決戦の刻』

 そしてやってきた日本ダービー(Gl)当日。3年前に日本で生まれた1万頭近いサラブレッドたちの頂点を決する競馬界最大の祭典、そして決戦の日である。この日出走を許された18頭のそれぞれが、どのような戦いを繰り広げるのか。夢をつかむのは、どの馬なのか。誰もがかたずを呑んで見守る中で、運命のレースのゲートが開いた。

 スタートと同時に、マルチマックスが落馬した。人気薄で大勢に影響がないともいえたが、ターフに投げ出された南井騎手にとっての93年の夢は、スタートとともに終わってしまった。翌94年にはナリタブライアンで初めてのダービーを勝つことになる彼だが、そんなことは知る由もない。

 レースの展開は、アンバーライオンが逃げて、ドージマムテキがそれに続く形となった。ビワハヤヒデはいつもよりはやや後ろで、ちょうど中団あたりにつけた。ウイニングチケットはというと、スタート地点こそ10番枠だったが、第1コーナーまでにすになりと内ラチ沿いへと入り込み、ビワハヤヒデの後ろにつけた。柴田騎手は、ダービーでも皐月賞と同じように、中団からの差しで勝負する覚悟を決めていた。ナリタタイシンは、この日も思い切って一番後ろからの競馬になった。

 内ラチ沿い、馬群の中で競馬を進めるウイニングチケットは、かかって実力を発揮しきれなかった皐月賞と異なり、今度は人馬一体となってぴたりと折り合っていた。この日の彼の行き脚は実に良く、レースの流れに乗り、じわじわと前へ進出していった。

 だが、そんなウイニングチケットには、ひとつの難題があった。内で競馬を進める場合、走る距離としては短く済ませられる反面で、直線では前が壁になってしまう可能性が高いリスクも常に背負っている。馬群の中からの競馬では、なおさらである。ウイニングチケットの柴田騎手は、あくまで内を衝くのか、それともどこかで外に持ち出すのか、決断を迫られた。それは、内にいるビワハヤヒデの岡部騎手も同じことである。

『明暗』

 2人の名手が最終的に決断したのは、いずれもレースが最高潮を迎える第4コーナー手前でのことだった。だが、その内容は対照的なものとなった。先を往く岡部騎手が、不利を避けるために第4コーナーでビワハヤヒデを外に持ち出したのに対し、柴田騎手は、ビワハヤヒデが外へ持ち出したことでぽっかりと空白になった空間へ、ウイニングチケットとともに突っ込んでいったのである。

 彼らの選択は、岡部騎手ではなく柴田騎手に吉と出た。彼らが決断を下したのとほぼ時を同じくして、彼らのさらに前では、ドージマムテキが馬場の良い所を通ろうとして、馬場状態の悪い内ラチ沿いから外へと持ち出していた。すると、他の馬もつられて外へ持ち出す形になったため、ウイニングチケットの前が、ちょうどエアポケットのようにぽっかりと開いたのである。

 この絶好機を見逃す柴田騎手ではなかった。本来この道は、ビワハヤヒデのために開くはずの空間だった。それが今は、彼らの前にある。堅く閉ざされていたかに見えた馬の壁に開いた彼らのための道は、彼らにとっては出エジプトの際にモーゼの前に開いた海のような奇跡だった。栄光へと誘う勝利への一本道を衝いたウイニングチケットは、直線へ、そして悲願へとなだれ込んでいった。

 その一方で、安全策を採ったはずのビワハヤヒデは、ドージマムテキのアオリを受ける形となり、前が窮屈になる形となった。ウイニングチケットは、ここで宿敵ビワハヤヒデに、初めて一歩先んじたのである。

『死闘』

 直線入口を見事な形で乗り切った柴田騎手は、外へ持ち出したビワハヤヒデが苦しむのを見て、早くも勝負どころと見切り、出し抜けを食わすようにムチを飛ばした。柴田騎手の水車ムチに応え、ウイニングチケットも一気に前に出る。その時点で彼より前にいた馬はもう一杯になっており、ウイニングチケットがいずれ先頭に立つことは、もはや明らかだった。問題は、そのままゴールまで粘りきれるのかどうかである。第4コーナー付近での仕掛けは、直線の長い府中では、早すぎる仕掛けとなりかねない。

 しかし、この日の柴田騎手に不安はなかった。ウイニングチケットならば、押し切れる。彼には、確信があった。柴田騎手の信頼と闘志はムチを通して馬に伝わり、馬もそれに応えて己の限界に挑んだ。ウイニングチケットは、前を行く馬たちをやすやすかわすと、先頭に立ったのである。

 そんなウイニングチケットをめがけて、馬群の中から突き抜けてくる馬も現れた。一度外へ持ち出した際に大きな不利を受けながら、もう一度内側に戻って突っ込んできたビワハヤヒデが、不屈の闘志で末脚を伸ばしてきたのである。第4コーナーでの位置どりのロスなど感じさせない絶好の気配は、これまで万全の競馬を進めてきたウイニングチケットにまったくひけをとらないものだった。

 さらに、外からはもう1頭、後方からビワハヤヒデ以上の脚で飛んできた馬がいた。皐月賞馬のナリタタイシンである。武騎手が府中の長い直線、そして馬の実力を信じて末脚勝負に賭けたその作戦は、皐月賞馬から皐月賞の時と同じ、否、皐月賞の時を上回る、まさに「鬼脚」というにふさわしい斬れ味を引き出していた。

 先頭では、相変わらずウイニングチケットが逃げ粘っていた。だが、そんなウイニングチケットに対し、内からはビワハヤヒデが並びかけ、さらに外からは、ナリタタイシンの気配が迫っていた。第60回日本ダービーで「三強」といわれた彼らの揃い踏みである。

『勝ったのは―』

 だが、この時の柴田騎手とウイニングチケットは、確かに一体となっていた。ウイニングチケットを追う柴田騎手の気迫は馬に確かな力を与え、懸命に走るウイニングチケットの手応えは、柴田騎手に自信を返した。そんなウイニングチケットと柴田騎手は、ライバル2頭をさらに突き放さんばかりに、ゴールを前にしてもう一度伸びた。

 もちろんライバルたちも、そうやすやすと譲ってはくれない。ビワハヤヒデが懸命に食らいつく。だが、半馬身の差がどうしても縮まらない。ナリタタイが力の限り追い込む。だが、ゴールまでの距離が短すぎて届かない。

 3頭はひとつのかたまりとなってゴールへ駆け込んだが、ウイニングチケットビワハヤヒデより半馬身前にいた。柴田騎手とウイニングチケットは、ついにダービー制覇を果たした。

 ゴールの瞬間、実況はこう絶叫した。

「勝ったのは柴田政人ウイニングチケット!」

 この実況は、この年のダービーを象徴している。勝ったのは「ウイニングチケット」でもなければ「柴田政人」でもなく、「柴田政人ウイニングチケット」だった。ビワハヤヒデの粘りを、ナリタタイシンの追い込みを最後の最後に封じ込めたのは、人馬一体のダービーに賭けた気迫だったのである。

『府中が泣いた』

 レースを終えた府中の大観衆は、柴田騎手とウイニングチケットの栄光に熱狂した。馬券を取った者はもちろんのこと、取れなかった者も含め、誰もがこの結果に納得していた。道中の不利を感じさせない実力で最後まで粘ったビワハヤヒデ、自分のレースに徹して大舞台で皐月賞に続く末脚を見せたナリタタイシン。そのいずれもが、ダービー馬となっても決して恥じないレースだった。だが、そんな彼らを抑えて頂点に立ったのは、柴田騎手の27年間の歴史と夢の重みと人馬一体の好騎乗だった。すべてを賭けた戦いの果ての結果に、ファンは誰もが損得抜きの拍手と祝福を送った。

 やがて、観客席の中からはじわじわとただ1人の勝者のためのコールが巻き起こった。気付いた人々は、遅れじとそれに唱和した。彼らは

「政人! マサト! 」

と勝者の栄光を讃え続け、唱和するファンの中には涙を流している者も少なくなかった。今なお伝説として語り継がれる、府中が泣いたマサト・コールだった。

 もっとも、この涙の背景には、ひとつの勘違いもあった。ダービー前のマスコミは、柴田騎手のコメントを取れなかったため、それに代えて

「ダービーを勝ったら騎手をやめてもいい」

という言葉をこぞって報道した。ところが、それらの報道の中には、どこで話がどう間違ったのか、「やめてもいい」が「やめる」として伝わったものがあった。

「ダービーを勝ったら、騎手をやめる」

 これが柴田騎手のコメントであると勘違いしたファンもおり、中には泣きながら

「政人、やめないでくれ! 」

と叫んでいる者もいたという。これには、柴田騎手も苦笑いするばかりだった。

 しかし、そんな野暮は抜きにして、このときの「政人コール」が最近の競馬界でも屈指の名シーンだったことは確かである。

 柴田騎手は、勝利インタビューで

「世界中のホースマンに、私が第60回日本ダービーを勝った柴田政人です、と言いたい」

と喜びを語った。柴田騎手が海外に行った時に、彼の周囲の人々は彼のことを「日本の一流騎手」と紹介してくれるが、そう紹介された相手からは

「では、シバタはジャパン・ダービーを何度勝ったのか」

と聞かれることが少なくなかった。そのたびに

「俺はまだ本当の意味での一流騎手ではないんだ」

と悔しい思いをしてきた柴田騎手は、この日ついに悲願を果たすとともに、騎手としてのひとつの到達点に達したのである。また、感想を聞かれた伊藤師も、自らもダービーは初制覇であるにもかかわらず、

「自分でダービーを勝ったことももちろんうれしい。でも、それ以上に政人でダービーを勝ったことが嬉しいんです」

と語っている。勝者はもちろんのこと、岡部騎手、武騎手といった敗者も、誰もが柴田騎手の好騎乗を讃え、その悲願の実現を祝った。この日に限っては、すべてのホースマンが柴田騎手のダービー制覇を祝福したと言っても過言ではない。第60回日本ダービーは、そんな幸せな光景によって幕を下ろしたのである。

『ライバルの反攻』

 ダービー馬となったウイニングチケットが次に目指すものは、当然菊花賞(Gl)での二冠制覇だった。平成新三強の一角に数えられるに至った皐月賞ナリタタイシンが、ダービーの後さらに高松宮杯(Gll)に使った影響で調整に失敗し、菊花賞へはぶっつけで臨まざるを得なくなったのを尻目に、ウイニングチケットはダービー後すぐに放牧に出されて夏を休養にあて、万全の態勢で菊花賞へと向かうことになった。

 だが、もう1頭のライバルであるビワハヤヒデは、ウイニングチケットとはまったく異なる選択をしていた。朝日杯3歳S皐月賞、そして日本ダービーとGlで3戦続けて2着に敗れたビワハヤヒデに対しては、

「早熟だったのではないか」
「勝負根性に欠ける」

といった評価も一部でされ始めていた。だが、彼を管理する浜田光正師のこれらの敗因に対する意見は、「瞬発力不足」というものだった。この弱点を補わなければ、秋にも同じ悔しさを味わうことになってしまう・・・。

 そこで浜田師は、夏はビワハヤヒデをレースに使う予定がないににもかかわらず、あえて厩舎に留めおいた上、坂路を使って徹底的に鍛え抜いた。皐月賞、ダービーを好走した馬は、ダービー後に放牧に出るという当時の常識からすれば異例の調整方法だった。ダービーで大目標を達成したウイニングチケット陣営と違って、3歳時から大器と言われ続けながらついに春は無冠に終わったビワハヤヒデ陣営の危機感ははるかに大きなものだった。

 こうして春の雪辱にかけるビワハヤヒデは、まず神戸新聞杯(Gll)から始動した。出走馬の中には、4歳ながらラジオたんぱ賞(Glll)で日本レコードを叩き出して大器の片鱗を見せた快速馬ネーハイシーザーがいたものの、ビワハヤヒデはそのネーハイシーザーを子供扱いする完膚無きまでの圧勝をとげ、ライバル陣営、そして菊花賞制覇の夢へ向けて、挑戦状を叩きつけてきた。

 これに対し、ウイニングチケットの始動戦は、京都新聞杯(Gll)に決まった。最初は神戸新聞杯ビワハヤヒデにぶつけるというプランもあったものの、夏に休んだこといったん緩んだ馬体を再び臨戦態勢に持っていくために、あえて予定を遅らせ、万全を期したのである。京都新聞杯には、春のクラシックで底を見せた馬か、条件馬もどきの馬しかおらず、神戸新聞杯でのネーハイシーザーのような有力な上がり馬はいなかった。ダービー馬・ウイニングチケットは、久々のハンデがあるとはいっても、相手関係としては当然に楽勝しなければならなかった。

『視界不良』

 ところが、ウイニングチケットはこのレースで、思わぬ苦戦を強いられた。ダービーの時のような精彩を欠くウイニングチケットは、道中でいったん進出を開始しながら、下り坂で再び後退する・・・そんなちぐはぐなレースをしてしまった。ウイニングチケットが伸びてきた残り1ハロン地点で、彼と逃げるマイヨジョンヌとの間はまだ4、5馬身差がついており、逆転は絶望的に見えた。

 最後にはなんとかクビ差逆転し、ダービー馬の面目は保ったウイニングチケットだったが、レース内容は大いに不満の残るものだった。一般のファンは

「もの凄い末脚だった。さすがはダービー馬だ」
「絶望的に見えても最後はきっちり差し切るあたり、やはり競馬が分かっている」

と好意的に受け止めてくれたが、伊藤師や柴田騎手は知っていた。この日の勝利は、たまたまマイヨジョンヌが止まってくれたから拾った勝利である。相手がビワハヤヒデならば、そんなところで止まってくれるはずはない・・・。夏を越した2頭のライバル同士の始動戦は、非常に対照的なものとなってしまった。

 ただ、ウイニングチケット好材料があるとすれば、それはウイニングチケットが放牧明けであり、夏もみっちりと鍛えられてきたビワハヤヒデと違って仕上がり途上段階でのレースだったことである。ウイニングチケットはダービー馬であり、休み明けを一つ叩いたことで大きく変わってくることが期待された。菊花賞を前にした追い切りでも、ウイニングチケットにはようやく気合いが乗り、走りにも迫力が戻ってきたように見えた。

 しかし、ウイニングチケットの仕上がりを見つめる伊藤師の表情は、渋いものだった。ダービー前には皐月賞での敗北にも関わらず悠然と構え、余裕すら感じさせた伊藤師だったが、今度は京都新聞杯を勝ってきたにもかかわらず、そのような雰囲気は全くなかった。

 このころ、ライバルのビワハヤヒデの陣営からは、浜田師が

「完璧。これで負けるようだったらどうしようもない」

などとという景気のいい発言がぽんぽん飛び出し、菊花賞が近づくにつれてボルテージは上がる一方だった。ウイニングチケット陣営とビワハヤヒデ陣営・・・その雰囲気の違いは、そのまま菊花賞へ向けたそれぞれの手応えの違いを反映していたのかもしれない。

『遠ざかる背中』

 トライアルの内容、そしてレース直前の両陣営の気配から、日本ダービー勝馬と、2着馬の地位は逆転した。菊花賞(Gl)で1番人気を奪ったのは、ウイニングチケットではなくビワハヤヒデの方だったのである。

 ちなみに、平成新三強の一角を占めたナリタタイシンは、夏に肺出血を起こしたことが伝えられ、ぶっつけで菊花賞には間に合わせたものの、優勝戦線からは大きく後退を余儀なくされていた。実質的には、ウイニングチケットビワハヤヒデの一騎打ちだった。

 だが、夏に浜田師の猛トレーニングに耐え抜いたビワハヤヒデは、春とはすっかり馬が変わっていた。ビワハヤヒデは、もともと能力の高さは疑うべくもなく、折り合いも自在につけられる器用な馬である。その馬が、夏の猛トレーニングによって、それまで欠けていた瞬発力をも備えるに至った。それに対して、ウイニングチケットがダービー後に得た上積みは・・・ライバルに比べると、劣っていたといわなければならない。

 ゲートが開くと、神戸新聞杯で逃げを披露したネーハイシーザーが行かなかったため、先頭を行く馬がいなくなってしまった。もともと逃げる気のなかった馬たちが仕方なく先頭に立ったものの、騎手たちはなんとか目標にされる不利を避けたいと願い、他の馬が前に出ようとするとこれ幸いと手綱を抑え、なんとか他の馬に先頭を譲ろうとする。これではペースが上がろうはずもなく、先頭はめまぐるしく入れ替わるものの、実際にはスローペースという展開となった。そんな中で、ビワハヤヒデは3番手の好位置にとりついていた。

 スローペースは、折り合いに難があるウイニングチケットにとっては、明らかにマイナス要素だった。さらに、前が止まらないスローペースになれば、いくらウイニングチケットの末脚が爆発しても、京都のそう長くない直線では、ビワハヤヒデに届かない。

 柴田騎手は、京都競馬場の1周目こそ後方に待機していたものの、スローペースに危険を察知し、早めに進出を開始した。二度目の坂ではじわじわとビワハヤヒデとの差を詰め、直線に入る第4コーナーではビワハヤヒデの後ろ、5番手まで押し上げていた。

 だが、その後ビワハヤヒデは加速し、ウイニングチケットをはじめとする後続を、みるみる突き放していった。スローペースの不利を挽回すべく、柴田騎手が早めに動かしたウイニングチケットだったが、それからはビワハヤヒデにあっとという間に置いていかれてしまった。2馬身、3馬身・・・その差はみるみる広がっていった。

 この日のウイニングチケットは、早めに動いたことがたたったのか、ビワハヤヒデに突き放されただけでなく、ステージチャンプとの競り合いにも敗れ、3着に沈んでしまった。ビワハヤヒデが2着のステージチャンプにつけた着差は5馬身差であり、ウイニングチケットはそのステージチャンプからさらに半馬身後方にいた。

 レースの後、柴田騎手は距離適性と展開を敗因としてあげた。だが、伊藤師は

「思う通りにレースをしたとしてもビワハヤヒデにはついていけなかったかも知れない」

と完敗を認めた。夏の間の成長力は、ビワハヤヒデウイニングチケットというライバル同士の距離を、いつの間にか大きく隔ててしまっていた。

 こうして「平成新三強」のクラシックは、皐月賞ナリタタイシン日本ダービーウイニングチケット、そして菊花賞ビワハヤヒデと、3頭で三冠をひとつずつ分け合う形で終わりを告げた。・・・だが、きたる古馬戦線で主役を張っていくのがどの馬なのかは、菊花賞の結果に暗示されていた。直線でみるみる遠ざかっていったライバルの背中は、開いてゆく彼らの地位を象徴していた。

『不完全燃焼の秋』

 菊花賞に敗れたウイニングチケットは、続いてジャパンC(国際Gl)への出走を表明した。ジャパンCはダービーと同じ東京2400mコースで行われるため、得意な舞台で復活を賭けたのである。

 この年のジャパンC(国際Gl)は米国からブリーダーズカップターフを制したコタシャーンが、欧州からは凱旋門賞アーバンシーがそれぞれやって来ていた。ブリーダーズカップ馬と凱旋門賞馬が同時に来日するのはジャパンC史上初めてのことである。他にもアーリントンミリオンなど米国の芝Glを3勝したパラダイスクリーク、前年にフランスダービーを勝ち、この年も凱旋門賞で2着に入ったエルナンドなど、外国招待馬10頭のすべてがGl勝ち経験を持っていたこともあり、「史上最強の外国招待馬」といわれていた。

 そんなメンバーの中で、ウイニングチケットは日本馬として人気最上位となる4番人気に支持された。世界を向こうに回して日本馬の大将格となったウイニングチケットの結果は、直線で良く伸びたものの、追撃届かず3着というものだった。2着に入った米国最強馬コタシャーンとまともに戦っての3着であり、その意味では価値あるものだったが、勝ち馬が同じ日本馬のレガシーワールドで、しかもレガシーワールドとの差は決定的だったことから、必ずしも満足のいく成績だったというわけではなかった。

 ウイニングチケットは、この後有馬記念(Gl)にも出走し、3番人気に支持された。しかし、京都新聞杯から菊花賞ジャパンCと使い込んできた疲労は、ここにきて表れた。1年ぶりのレースで奇跡の復活を遂げたトウカイテイオー、そのトウカイテイオーに最後まで食い下がって2着となったビワハヤヒデに比べ、ウイニングチケットはまったくいいところのないまま11着に惨敗してしまった。菊花賞(Gl)3着、ジャパンC(国際Gl)3着を含むとはいえ、4戦してGll1勝だけという4歳秋の成績は、ダービー馬ウイニングチケットにとって、満足すべきものとはいい難い結果だった。

『別離』

 有馬記念の後、ウイニングチケット笹針が施した上で、長期放牧に出されることになった。伊藤師は、菊花賞のレース内容から長距離適性に見切りをつけ、天皇賞・春(Gl)は回避することを早々に決めた。そのため、ウイニングチケットの5歳春の大目標は、宝塚記念(Gl)に置かれることになった。

 しかし、十分な休養をとった上で復帰を目指していたウイニングチケット陣営に、予期せぬ不運が襲った。春シーズンがいよいよ本格化しようかという4月に入って、主戦である柴田騎手が落馬事故に見舞われたのである。首を負傷した柴田騎手は長期の戦線離脱を余儀なくされ、ウイニングチケットの鞍上は宙に浮いてしまった。

 一方、ウイニングチケットの復帰も、予定していた宝塚記念には間に合わず、高松宮杯(Gll)にずれ込んだ。その復帰戦の鞍上に、柴田政人騎手の姿はなかった。この日彼の鞍上を務めたのは、柴田は柴田でも柴田政人騎手の甥にあたる柴田善臣騎手だった。

 新しいパートナーを迎えたウイニングチケットだったが、彼の末脚からは、4歳時の豪脚が嘘のように鳴りを潜めてしまった。出走してきたのは格下の馬ばかりで、メンバー的には負けるはずがなく、また負けてはならないレースだったウイニングチケットだが、その結果はナイスネイチャの5着というまさかの完敗だった。そのあまりにだらしない負け方は、まるで馬が柴田政人騎手でなければ走りたくない、と主張しているかのようだった。だが、そうは言ってもその柴田騎手の戦線復帰はなかなかめどが立たない。ウイニングチケットがいない間に天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)を楽勝し、最強馬としての地位を確固たるものとしたかつてのライバル・ビワハヤヒデと比べると、あまりにもふがいないものと言わざるを得なかった。

『さらば、柴政』

 一刻も早い復帰が待望された柴田騎手だったが、彼が落馬事故で負傷した箇所は、以前にも痛めたことのある古傷部分であり、その回復は遅れに遅れていた。あくまで復帰を目指しての懸命のリハビリを続ける柴田騎手に対し、医師の診断は無情にも

「日常生活には支障がないものの、騎手として復帰することは難しい」

というものだった。この宣告を受けた柴田騎手の足は、知らない間に所属先の高松厩舎へと向かっていた。

 高松邦男師をはじめとする主だった厩舎関係者は、そのころローカル開催にに出張中しており、高松厩舎には柴田騎手の弟弟子である小野次郎騎手をはじめとする少数のスタッフしか残されていなかった。柴田騎手が訪れた時、小野騎手はちょうど所属馬の攻め馬をつけているところだった。

 柴田騎手は、小野騎手が騎乗していた馬がおとなしい古馬だったため、何も言わずに小野騎手をつかまえ、

「馬を貸してみろ」

というなり、その馬を奪い取って調教をつけ始めた。そして、その古馬の調教を何の気なしにつけ終えると、今度は

「大人しい馬じゃ張り合いがない。もっといきのいい馬に乗せてくれ」

と言い出した。柴田騎手の故障の状況を詳しく聞かされてはいなかった小野騎手は、調教をつける柴田騎手が予想以上に元気なのを見て安心したものの、さすがにこの注文には首を縦に振らなかった。

 すると、その数日後、調教に出てきた小野騎手は、今度は柴田騎手が他厩舎の所属馬で、気性が悪いと評判になっていた新馬の調教をつけている光景を見かけた。心配になって柴田騎手の様子をじっと見ていた小野騎手だったが、柴田騎手はその新馬を無難に乗りこなしているように見えた。下馬する際に笑顔を見せていた柴田騎手の様子を目にした小野騎手は、

「ああ、政人さんはこれで復活するんだ」

と思ったという。

 しかし、この時の柴田騎手の心中は、小野騎手が思ったのとはまったくの逆だった。元気のいい暴れ馬に乗って調教をつけた彼は、その時はっきりと自分の限界を悟っていた。

「もう以前の俺には戻れない・・・」

 これまでいつも馬と共に生き、馬と共に闘ってきた柴田政人は、暴れ馬が不測の事態を起こしたり、レースの極限状態の中で何かが起こった時には、もう自分の身体では十分に対応しきれないことをはっきりと悟ったのである。柴田騎手は、馬によってのみ己の引き際を知った。その翌日、柴田騎手は騎手引退を発表した。日本ダービー制覇に賭けた男にとって、初めての悲願を果たした第60回日本ダービーは、その生涯で最後のダービー騎乗となった。

『熱い季節の終わり』

 伊藤師は、残されたウイニングチケットのために、かつてはナリタタイシンの主戦騎手としてウイニングチケットの前に立ちはだかってきた武豊騎手にその騎乗を依頼した。幸いと言うべきか、ナリタタイシンは、当時戦線を離脱していたため、武騎手もこの依頼を快諾した。こうしてウイニングチケットは、武騎手との新コンビでオールカマー(Glll)に出走し、ビワハヤヒデとの再戦に臨むことになった。

 他の馬の陣営は、ビワハヤヒデウイニングチケットが出てくると聞くと、勝算がないとばかりに次々と回避したため、レースは8頭だてで行われた。1番人気はビワハヤヒデ、2番人気はウイニングチケットで、この2頭の馬連は130円である。

 しかし、ウイニングチケット単勝支持率は、もはやビワハヤヒデの半分にも満たなかった。菊花賞以来久々のビワハヤヒデとの直接対決となったオールカマーだったが、この時2頭の差は、もはや歴然としていた。

 レースに入ると、ビワハヤヒデは先頭のロイスアンドロイスを見ながらの2番手につけ、ウイニングチケットは後方待機策を採った。これは、それぞれの得意とする戦法そのものである。

 ビワハヤヒデは、第3コーナーで先頭に並びかけていった。するとウイニングチケットも、やはり進出を開始して直線での末脚に賭けた。だが、いまや成長したビワハヤヒデの前には、ウイニングチケットの末脚さえも歯が立たなかった。ビワハヤヒデを差すどころか、ロイスアンドロイスをかわすことにも苦労する始末で、ようやくロイスアンドロイスはかわしたものの、ビワハヤヒデからは1馬身4分の3の差をつけられ、一度も脅かすことのないままレースは終わってしまった。

 その後ビワハヤヒデとともに天皇賞・秋(Gl)へ進んだウイニングチケットだが、5着に敗れたビワハヤヒデとともに、8着に敗れてしまった。ビワハヤヒデは左前脚、ウイニングチケットは右前脚に屈腱炎を発症してしたのである。いずれも重症であり、競走能力への影響は深刻だった。

 レースのわずか3日後、ウイニングチケットの現役引退と種牡馬入りが発表された。まるで柴田騎手の後を追うかのような、突然の引退劇だった。ビワハヤヒデ天皇賞・秋を最後に引退し、かつて平成新三強とうたわれたライバルのうち2頭は、くしくも同じ日、同じレースを最後に現役を退くことになった。ライバルたちが繰り広げた熱い季節は、その主役たちの退場によって、完全に終わりを告げた。

『不完全燃焼の秋』

 ウイニングチケットは、種牡馬として馬産地へ帰ってきた。ダービー制覇以降は今ひとつ不完全燃焼に終わった感のあるウイニングチケットだったが、種牡馬としての人気は、実績と血統背景が評価され、かなり高いものだった。ウイニングチケットの父トニービンは、ウイニングチケット以降も多くの強豪を輩出して人気種牡馬であり続けたが、ウイニングチケットはその後継種牡馬としての需要も集め、毎年70〜80頭の種付け頭数を確保したというのは、内国産種牡馬としては大人気の部類に入る。

 1998年にデビューした初年度産駒は地方でデビューする馬が多く、それほどの馬は表れなかったウイニングチケット産駒だが、3年目の産駒からはフェアリーS(Glll)を勝ったベルグチケットを送り出し、重賞馬の父となった。現在も中央競馬にはウイニングチケット産駒のオープン馬がおり、彼の種牡馬としての評価は安定傾向にある。

 とはいえ、現役時代の成績を基準にすれば、そろそろ中長距離戦線でも活躍馬を送り出してもいいはずである。トニービンの後継種牡馬サクラチトセオージャングルポケットが現れている現在だが、トニービン自身が2000年に死亡した情勢の中では、ウイニングチケットの血統的価値は決して下がってはいない。

 騎手を引退して調教師となった柴田騎手改め柴田師は、その後自らの厩舎を開業して再びのダービー制覇を目指している。日本ダービー制覇という悲願を目指してともに戦った柴田師とウイニングチケットは、それぞれの道の中で今を生きている。

 競走馬と騎手として日本競馬界最高の祭典であるダービーを制したこの名コンビには、今度は種牡馬と調教師として、もう一度ダービーを目指してほしいものである。府中を震わせた日本ダービー史上・・・日本競馬史上でも一、二を争うであろう名シーンが神話となる前に、その再現をもう一度最高のコンビで実現する日がいつかやってくることを願わずにはいられない。柴田政人ウイニングチケット・・・そのコンビこそが、誰よりも府中にはよく似合うのだから―。[完]

記:1999年5月28日 補訂:1999年6月4日 2訂:2000年9月3日 3訂:2003年3月31日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/