『ハンデキャップホース』

 その後のラッキーゲランは、実力の限界を悟ったかのように華やかなGl戦線を避け、徹底して裏路線を歩み続けた。時々思い出したかのように中央開催のレースに出たこともあったものの、結果は伴わなかった。

 裏路線の別定戦、あるいはハンデ戦では、Gl勝ちをはじめとして重賞を3勝しているラッキーゲランは、当然多めの斤量を背負わされることになる。それでも彼はしぶとく走り続け、多くは凡走しながらも、何回に1回か、人気が落ちきったところでいい走りを見せた。6歳時の中京記念(Glll)では、59kgを背負って8番人気まで支持を落として突然2着に好走した。ちなみに、このときの勝ち馬は、後の天皇賞馬ながら当時はローカル専門のハンデキャップホースと見られていたレッツゴーターキンである。さらに、人気が上がりかけたところでまた下から数えたほうが早い着順を続け、半年後のトパーズS(OP)では見捨てられて11頭立ての9番人気になっていたが、ここでも59kgを背負ったにもかかわらず、スタートから好ダッシュで先頭に立つと、阪神3歳S(Gl)を思い出したかのように逃げ切り勝ちを収めた。ラッキーゲランは、毎日王冠以来約1年ぶりの勝利の美酒を手にするとともに、また穴馬券を演出して穴党のひねくれ者どもを大喜びさせたのである。

 もっとも、中途半端なところで頑張るものだから、ハンデはなかなか軽くならなかった。7歳になったラッキーゲランは、59kgだの59.5kgだのを平気で背負わされるようになった。真夏の伝統のオープン巴賞では、62kgを背負って不良馬場を走った。このような状況にあっても4着や5着という微妙なところで賞金を持ち帰るのはさすがだが、馬券にはなかなか絡めなくなってしまった。