1999-12-01から1ヶ月間の記事一覧
現役時代から多くのファンの心に鮮烈な印象を残したメジロライアンだが、どうやら種牡馬としても、内国産種牡馬の苦戦の中で、大成功を収めた幸福な例外となりつつあるようである。一方、彼と苦楽を共にした横山騎手も今や関東、そして日本を代表する騎手の…
しかし、そんなメジロ牧場の危機を救ったのは、メジロライアンの子供たちだった。メジロ牧場が送り出したメジロライアンの初年度産駒の中からは、2頭の大物が出現したのである。その1頭はメジロビューティーとの間に生まれたメジロドーベルであり、もう1頭は…
しかし、それからの数年間は、メジロライアンにとって、そしてメジロ牧場にとって「冬の時代」となった。 まずメジロライアンの人気は、実際に産駒が生まれてからも特に上昇する気配はなかった。産駒が生まれると「馬体がいい」「走りそうだ」という評判が立…
もっとも、種牡馬としてのメジロライアンに、最初から洋々たる未来が開けていたわけではなかった。メジロライアンは一応その年に初年度産駒がデビューする内国産種牡馬の中でこそエース格に挙げられていたものの、その年の内国産新種牡馬は、かなり層が薄い…
鮮やかな復活を遂げた日経賞から約半年後、天皇賞・秋(Gl)当日の東京競馬場で、メジロライアンの引退式が行われた。この日久しぶりに競馬場に姿を現したメジロライアンは、ファンの前で屈腱炎を忘れたかのような走りを披露した。メジロライアンがあまりに…
屈腱炎からも立ち直った復活の勝利には、さすがに奥平師、横山騎手とも満面の笑みとなった。そうすると、次なる目標はもちろん決まっていた。「天皇賞へ行きます」 奥平師の口からは心強い言葉が放たれた。宿敵メジロマックイーンにもう一度戦いを挑み、今度…
「ライアン復活か? 」 奥平師らの気配がファンにも伝わったのか、あるいは応援する馬と心中しようという思い入れか、復帰後2走の凡走にもかかわらず、メジロライアンは1番人気に支持された。出ればそれだけで人気になるのがメジロライアンだつた。もしここ…
こうして悲願のGl制覇を果たしたメジロライアンだったが、幸福な時間はそう長くは続かなかった。3歳の時からずっと一線級で走り続けたメジロライアンは、その脚部にも疲労が蓄積していたのか、ついに故障を発症してしまったのである。その故障とは、競走馬…
メジロライアンとメジロマックイーンのオーナーであるメジロ牧場にとっても、この日の宝塚記念は素晴らしい結果となった。勝ったのがメジロライアンで、2着がメジロマックイーンということは、メジロ牧場の生産馬、所有馬によるワン・ツーフィニッシュである…
メジロライアンが直線に入ったころには、後続の馬たちも、負けじと上がってきた。その中には、メジロマックイーンの姿もあった。これまでのメジロライアンならば、このあたりで詰めが甘くなっていたかもしれない。しかし、この日のメジロライアンは違ってい…
宝塚記念(Gl)当日1番人気に支持されたのは、当然のようにメジロマックイーンだった。メジロマックイーンは父子三代制覇を果たした天皇賞・春に比べると、調教の様子などから調子落ちが指摘されていたが、距離適性や調子が少々落ちても、メジロライアンより…
この日までにメジロライアンは、菊花賞と天皇賞・春で既に2度メジロマックイーンに敗れていた。そのため、ファンの間からは「ライアンはもうマックに勝てないんじゃないか」という声も上がり始めていた。しかし、これまでの2度の敗北はいずれもマックイーン…
5歳になったメジロライアンは、相変わらずのジリ脚ぶりを発揮し続けた。いや、むしろジリ脚に磨きをかけたといった方がいいかもしれない。年明け緒戦に選んだ中山記念(Gll)では、またもや芦毛のユキノサンライズに逃げ切りを許して2着に終わった。メジロマ…
メジロライアンの4歳時のGl戦績は、皐月賞3着(2番人気)、日本ダービー2着(1番人気)、菊花賞3着(1番人気)、有馬記念2着(3番人気)というものである。古くは1958年(昭和33)年にクラシック三冠ですべて2着だったカツラシュウホウ、1964年(昭和39年)…
しかし、この日の有馬記念は、いくつもの予想外の事態がことごとくメジロライアンの脚を引っ張った。レース前にヤエノムテキが放馬したことから発走が遅れた上、本来逃げ馬ではないオサイチジョージが先手を取って、ペースは超スローで流れた。これらは、ま…
3000mを弾むように駆け抜けて、メジロマックイーンは1着でゴールに飛び込んだ。これで兄メジロデュレンに続く兄弟菊花賞制覇の達成になる。一方のメジロライアンは、メジロマックイーンに届かないどころか、後ろから追い込んできたもう1頭の芦毛ホワイトスト…
当時、メジロライアンの本質はステイヤーと評価されていた。父のアンバーシャダイは天皇賞・春、有馬記念を制したステイヤーだったし、彼自身も皐月賞よりむしろダービーで強いレースをしていたことから、距離延長はむしろ好材料とみられていた。 しかし、ア…
菊花賞(Gl)当日、メジロライアンはダービーに続いて1番人気に支持された。春の実績、そして秋緒戦の勝ち方を見れば、むしろ当然ともいえよう。2番人気はダービー3着、セントライト記念(Gll)優勝のホワイトストーンだが、単勝支持率に直すと1番人気の馬の…
こうして春のクラシックを3着、2着と惜敗したメジロライアンは、夏も放牧に出ず、函館記念(Glll)を目指しての調教が続けられることになった。しかし、その調教中に脚を捻挫したため調整過程に狂いが生じ、函館記念は回避して、次走は菊花賞トライアル京都…
しかし、最後にはアイネスフウジンの脚もさすがに止まったものの、前半の精密機械のような逃げはついに彼に栄光のゴールを勝ち獲らせる原動力となった。もしゴール板があと100、いや、50メートル先にあれば、結果は逆転していただろう。だが、現実には完璧を…
アイネスフウジンは直線半ばでハクタイセイらを完全に突き放すと、そのまま懸命の逃げこみを図った。競馬四季報でこの年のダービーを見ると、ペースの欄には速くも遅くもないということを示す「M」の文字が不愛想に印刷されている。しかし、それだけではアイ…
レースは大欅の向こう側、ハクタイセイとそれに連れられて上がってきた後続が一気にアイネスフウジンとの差を詰めてきたことで、いよいよ佳境に達した。しかし、普通の逃げ馬ならば直線に備えてペースを落とすはずのこの地点で、アイネスフウジンはなんとも…
しかし、アイネスフウジンに完全に支配されたかのように見えたレース展開の中で、流れをつかんで自分の走りをしている馬が、もう1頭いた。中団にいたメジロライアンと、横山騎手である。 横山騎手の心境は、次の言葉に集約されている。「僕の馬が一番強い! …
もっとも、場内20万の競馬ファンの大歓声がどよめきに変わるまでに、そう長い時間は必要なかった。アイネスフウジンは、逃げに逃げた。普通ならば逃げ馬は、2、3馬身くらいのセーフティリードを取った時点で、ある程度ペースを緩めにかかるはずである。しか…
日本経済全体がバブル経済に踊っていたこのころは、ちょうど日本の競馬が大きな変革期を迎えつつある時期でもあった。オグリキャップらの活躍によって競馬人気はこれまでになく高まり、東京競馬場へつめかけた20万近いファンの中には、これまでになく若者た…
閑話休題。長距離適性、コースの変化といったメジロライアン陣営のダービーへの期待の根拠は、彼らだけでなく多くの競馬評論家、そしてファンも賛同しうるものだった。ハクタイセイを管理する布施正調教師は「ダービーでは、メジロライアンが最大の敵になる…
このことについて、「メジロ牧場は馬を長い間活躍させるため、早い時期から無理に仕上げることをしない。だから、ダービーには間に合わないのだ」という説明がされることがある。なるほど、メジロ牧場の創設者である北野豊吉氏は「ダービーよりも天皇賞がほ…
もっとも、3着に敗れたメジロライアン陣営に失望はなかった。確かにメジロライアンは、皐月賞で敗れた。しかし、メジロライアンは、天皇賞と有馬記念を勝ったアンバーシャダイの子であり、さらに姉のメジロフルマーも日経賞、目黒記念を勝っている重厚な長距…
このように波乱のスタートとなった皐月賞は、それを取り巻く場内の雰囲気も、やや異常なものとなった。メジロライアンの位置取りはいつもどおりの後方であり、スタートの出遅れはいつものことと思えばあまり影響はないはずだった。しかし、若い横山騎手は、G…
メジロライアンが戦った1990年牡馬クラシック戦線は、例年にないハイレベルでの激戦だったことで知られている。そんな中、牡馬クラシック第1弾となる皐月賞(Gl)は4月15日、中山競馬場で行われた。 この時のスタートは、この年の波乱のクラシックの幕開けを…