『世紀の逃げ』

 もっとも、場内20万の競馬ファンの大歓声がどよめきに変わるまでに、そう長い時間は必要なかった。アイネスフウジンは、逃げに逃げた。普通ならば逃げ馬は、2、3馬身くらいのセーフティリードを取った時点で、ある程度ペースを緩めにかかるはずである。しかし、中野騎手にその気配は全くない。アイネスフウジンに競りかけようなどという果敢な馬はいないはずであるにもかかわらず、である。

 アイネスフウジンと後続の差はみるみる開き、向こう正面では2番手に5、6馬身差をつけての大逃げとなった。スタンドで見守るファンをして、いくら3歳王者の実力があっても最後まで持つはずがない、と思うのは、むしろ当然だった。

 しかし、戦場で戦う騎手たちは、ファンとは別のことを感じていた。騎手の時間感覚は、一般人とは比べものにならないほど正確である。彼らは、中野騎手とアイネスフウジンが作り上げたペースが、見かけほどは速くはないことをその身で感じていた。誰もがアイネスフウジンの一世一代の逃げに勝負師としての不安をかきたてられていた。

「逃げ切られる? 」

 だが、アイネスフウジンを捕まえにいこうにも、後方には直線での末脚を武器にする1番人気のメジロライアンがいた。早く仕掛けると最後に脚をなくして、メジロライアンに一気に差し込まれてしまう。好位置につけていたはずの騎手たちは、いつしか動くに動けないジレンマに陥っていた。そして、勝負のあやに飲み込まれて苦しむ騎手たちの中には、皐月賞ハクタイセイに騎乗した武豊騎手の姿もあった。

 第3コーナーにさしかかるあたりで、機械のように正確なラップを刻んでいたアイネスフウジンのペースが、ようやく少し緩んだ。だが、そのとき騎手たちの不安は、焦り、そして悔恨へと変わった。前年のダービーの覇者であり、ダービー2勝ジョッキーである郷原洋行騎手は、この年はカムイフジに騎乗して参戦していたが、この時

「(中野)栄治にやられた! 」

と直感したという。この時ペースが落ちたにもかかわらず、アイネスフウジンと中野騎手との間に呼吸の乱れは全くなかったのである。カムイフジ、そして皐月賞ハクタイセイがたまらない、とばかりに動くと、これに引っ張られるかのように後続も上がっていった。中野騎手とアイネスフウジンは、ダービーの前半を完全に支配することに成功していた。