『危機』

 5歳になったメジロライアンは、相変わらずのジリ脚ぶりを発揮し続けた。いや、むしろジリ脚に磨きをかけたといった方がいいかもしれない。年明け緒戦に選んだ中山記念(Gll)では、またもや芦毛ユキノサンライズに逃げ切りを許して2着に終わった。メジロマックイーンオグリキャップが相手ならともかく、はるか格下であるユキノサンライズにまで負けたことは、メジロライアン陣営の自身を大きく損なうものだった。

 そして、大目標だったはずの天皇賞・春(Gl)では、中間に熱発したことの影響から調整がうまく行かず、重め残しのままレースに臨まなければならなかった。その結果、メジロライアンメジロマックイーンの影さえ踏むことができず、それどころかミスターアダムスやカミノクレッセといった脇役にまで先着を許して4着に沈んだのである。これを屈辱といわずして、何を屈辱というのか。

 さすがにこれだけ負けが込むと、各方面から横山騎手の騎乗、そして横山騎手を乗せること自体に対して批判が集中するようになってきていた。

「ライアンが勝てないのは、騎手がヘタクソだからだ」

というのである。後にリーディングジョッキーとなるとはいえ、当時の横山騎手は減量の特典がはずれて間もない若手騎手である。負け続けるメジロライアンのためには何かしらの「いけにえ」が必要だったこともあって、この説はかなりの支持を受けた。一度はオーナーサイドでも本気で乗り替わりが検討されたという。

 だが、奥平師は乗り替わりを求める外部の声からあくまで横山騎手を守り続けた。奥平師は、最初に騎乗した一流馬を若手騎手から取り上げることが、その若手騎手の将来にどのように影響するかをよく知っていた。ことに、メジロライアンは横山騎手が未勝利戦から乗ってきた馬であり、本人の思い入れもただごとではない。ここで横山騎手を降ろすことは、彼の騎手としての将来を殺すことになってしまうかもしれない。そんな師の心をよそに、乗り替わりの声は日々大きくなっていく。

 奥平師は、宝塚記念(Gl)には横山騎手で臨むことを発表した。しかし、ここで勝てなければもう乗り替わりの声に抗しきれないことを覚悟していた。宝塚記念は、メジロライアン陣営の人々にとって、ひとつの極限状況となった。横山典弘にとって、奥平真治にとってこの日は、このレースだけは、絶対に敗北が許されないレースとなったのである。