『政人にダービーを勝たせるために』

 わが国の中央競馬における最高のレースは何か・・・そう聞かれた時に、最も多くのホースマンがその名を挙げるのが日本ダービーであろうことは、想像するまでもなく明らかであろう。1932年の「東京優駿大競走」に端を発する日本ダービーの歴史は、英国のクラシックを範にとって発展してきたわが国の中央競馬の発展の歴史そのものだった。戦争による中断はあったものの、同じ年に生まれたサラブレッドたちが、同世代で1頭にしか与えられることのない「日本ダービー勝馬」の称号と名誉を得るために繰り広げてきた数々の死闘は、多くの伝説を生み出してきた。

 ダービーの歴史が区切りの第60回を迎えた1993年日本ダービーも、日本ダービー・・・そして日本競馬の歴史に残る名勝負のひとつに数えられている。ハイレベルといわれた有力馬、そしてそれぞれの騎手たちの激しい駆け引きと死力を尽くしての激戦は、今なお多くのファンの語り草となっている。そんな歴史に残る死闘を制し、第60代日本ダービー馬の栄冠に輝いた名馬が、ウイニングチケットである。

 ウイニングチケットの場合、彼を語る際には必ず

柴田政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

という評価とともに語られるという特徴がある。日本競馬界の歴史を紐解いても、彼と同じような扱いを受けているサラブレッドはそう多くない。この点において、ウイニングチケットというサラブレッドは、日本競馬界の中でも特異な存在である。

 柴田騎手は、日本競馬の歴史の中で、独特の地位を占める存在である。柴田騎手の騎手としての成績は、JRAの歴代5位となる1767勝を挙げており、その実力、技術において超一流だったことは疑いの余地がない。だが、柴田騎手の最大の特徴は、数字によって表される実績というより、彼自身の「侠気」ともいうべきその誠実な人柄とされる。

 一流騎手は、ある程度勝てるようになると、フリーとなってなるべく多くの厩舎から、勝てる馬の騎乗依頼をひとつでも多く受けようとする・・・そんなドライな思想が競馬界の主流となりつつある中で、柴田騎手は、デビュー時から所属した高松厩舎の所属騎手であり続けた。また、有力馬の場合、大レースの直前にそれまで騎乗していた実績のない騎手から実績のある騎手に乗り替わることは、古今東西珍しいことではない。だが、柴田騎手はそれまで馬と戦いをともにし、育ててきた騎手の心を思ってそうした依頼を嫌い、自らが大レースで騎乗するのはそれまでも自らと戦いをともにしてきた馬・・・という理想に忠実であろうとした。

 そのような騎乗スタイルは、勝利数や重賞、Gl勝ちといった数字によって表される実績を積み上げるためには、マイナス材料としかなり得ない。現に、柴田騎手が騎手として晩年を迎えるころには、彼のようなスタイルはもはや旧時代の遺物としてほぼ淘汰されつつあった。だが、柴田騎手は、そのことを誰よりも理解していながら、あくまでも自らの思い・・・信念に忠実であり続けた。そして、ファンもまた、そんな無骨で不器用な生き方しかできなかった彼を愛した。

 そんな古風な男が最後までこだわったレースが、日本ダービーである。時代の変化とともに、ドライになっていく一方の日本競馬の中で、最後まで自分の生き方を貫きながら超一流の実績を残してきた彼が、どうしても手にすることのできなかった勲章・・・皮肉なことに、それが日本競馬の伝統を象徴し、最高のレースとして位置づけられてきた日本ダービーだった。年齢を重ね、騎手生活が残り少ないことを悟って

「ダービーを勝てたら、騎手をやめてもいい・・・」

と言い続けた柴田騎手の熱情にもかかわらず、ダービーの女神は彼を袖にし続けてきた。

 そんな柴田騎手に、「ダービー・ジョッキー」の栄光を与えたのが、ウイニングチケットである。それまで幾度もの挫折と危機を経てようやく最高の栄誉を手にした彼ら・・・柴田騎手とウイニングチケットは、間違いなく日本競馬史上最高の名場面の主役として輝いていた。ゆえに人はウイニングチケットのことを

「政人にダービーを勝たせるために生まれてきた馬」

と呼んだのである。

 今回のサラブレッド列伝では、日本ダービーの歴史の1ページを飾ったサラブレッドであるウイニングチケットの、柴田騎手とともに歩んだ戦いの軌跡に焦点を当ててみたい。