『遠い悲願』

 こうして名騎手への道を歩んでいった柴田騎手だったが、日本競馬の最高峰である日本ダービーへの道は、遠いままだった。デビューから26年目を迎え、ダービー騎乗も18回を数える柴田騎手に、ダービー制覇のチャンスがなかったわけではない。1978年にはファンタスト、85年にもミホシンザン皐月賞を制してダービーへ駒を進めるかに思われたこともある。

 だが、柴田騎手は18回負け続けた。ファンタストは、直前追い切りの後に腹痛を発症し、本調子で走れないまま惨敗した。ミホシンザンは、骨折によってダービーには出走することさえできなかった。その後菊花賞も勝ったミホシンザンは、「幻の三冠馬」となった。だが、そこに欠けていたのは、柴田騎手にとって一番大切なレースだった。

 柴田騎手が以前からダービー制覇に強いこだわりを見せていたことは、競馬界の常識となっていた。1984年にダービーをはじめとする無敗のまま三冠を制した「絶対皇帝」シンボリルドルフの主戦騎手には、最初柴田騎手の名前も挙げられていた。だが、後にシンボリルドルフの新潟デビューが決まったことから、主戦騎手は夏競馬では新潟を本拠地にしていた岡部騎手の手にわたることになった。すると、後にシンボリルドルフはダービーをあっさりと勝った。そのためシンボリルドルフの馬主兼生産者である和田共弘氏が柴田騎手を捕まえて

「済まなかったな、政人」

と冗談を言ったところ、柴田騎手は運命の悪戯に本気で悔しがった、とも伝えられている。

 不思議な運のなさ、めぐり合わせの悪さによってチャンスを逃し続けているうちに、柴田騎手は騎手としては老境に入る44歳を迎えていた。「騎手生活の終わり」を意識する年齢になっても、いまだ宿願は果たせていない。ダービーに乗るチャンスが、自分にあと何回残されているのだろうか。そんな思いもあって、いつしか彼からは、

「ダービーに勝ったら騎手をやめてもいい」

 そんな言葉まで飛び出すようになっていた。

 伊藤師は、だからこそ柴田騎手のために、ウイニングチケットを用意した。関西の調教師である伊藤師も、関東の柴田騎手の人柄と実力を深く認めていた。そうであるがゆえに、彼は関東と関西の枠を超えて、なんとしてもウイニングチケットと柴田騎手のコンビを実現させようとした。ウイニングチケットでダービーを勝ち、柴田騎手にダービーを勝たせるために。