『涙』

 ・・・だが、実際の高松師は、柴田騎手が想像したようにぶん殴るどころではなかった。柴田騎手が目にしたのは、予想もしていなかった高松師の熱い涙だった。

「政人、誰よりもアローにお前を乗せてやりたいと思っているのは、この俺だ。だが、アローはお前の馬じゃない、俺の馬でもない、関東のみんなの馬だ。関東一のアローが、関西一のタニノムーティエに勝つためには、関東一の騎手じゃないといかん。悔しかったら、政人、加賀武見を超えてみい」

 柴田騎手は、高松師の自分への思いを全く察することができなかった不明を恥じた。結局、アローエクスプレスのクラシック戦線は、柴田騎手ではなく加賀騎手で臨むことになった。

 加賀騎手とともに皐月賞日本ダービーへと進んだアローエクスプレスは、そのいずれでも宿敵タニノムーティエに敗れ、クラシック制覇は果たせなかった。アローエクスプレスのダービーを、柴田騎手は落馬負傷のため病院のベッドで見ることしかできなかったが、かつての愛馬がライバルの前に敗れ去っていく光景をただ見ていることしかできなかった。

 さらに、柴田騎手は、加賀騎手が都合がつかないトライアルでは、本番でアローエクスプレスに乗れないことが分かっていても、アローエクスプレスに乗らなければならなかった。自分が乗ったトライアルを勝って菊花賞へ向かうアローエクスプレスを見送る彼の目には、果たして何が映っていたのだろうか。この時の悔しさは、柴田騎手の「それから」を決定づけることになった。

 柴田騎手は、自分をアローエクスプレスから降板させる際に高松師が流した涙の意味、そしてそれまで手塩にかけてきた馬を他の騎手に奪われる悔しさを身をもって思い知った。彼は、一方では師の思いに応え、自らも二度と悔しい思いをしないために「降ろされない」実力を持つ一流騎手になろうと決意する反面で、自分が一流になっても、若手騎手にそんな思いをさせるようなことはするまい、と心に決めた。

 やがて柴田騎手は、若き日の決意とおり、関東を代表する騎手に成長していった。柴田騎手は、「政人」というと個性派騎手として知られた吉永正人騎手の「正人」と区別がつかないため、「柴政」と呼ばれることが多かった。そんな「柴政」の名前は、かつて関東の名手としての称賛をほしいままにした「加賀武見」に並び、そしてついには超える存在となっていった。

 だが、日本を代表する名騎手となった後も、柴田騎手は若き日の誓いを守り続けた。誰よりも義を重んじた柴田騎手は、自分を育ててくれた高松厩舎から離れようとはせず、師匠である高松三太師の死後は、その息子の代に至るまで高松厩舎の所属騎手であり続け、引退までフリーとなることはなかった。また、柴田騎手が他の厩舎から依頼を受けるときでも、大レースの直前に、それまで他の騎手が手塩にかけてきた馬を奪うようなことは、決してしなかった。他の騎手の馬を奪わないということは、それだけいい馬に乗るチャンスが減ることを意味する。柴田騎手自身、そのことは誰よりもよく分かっていた。それでも彼は、己の節を曲げることなく、自分の育ててきた馬、あるいは他の騎手が選ばなかった馬で大レースを次々と勝つことで、自分自身の実力を証明していった。当時の競馬界で柴田騎手と並び称されることが多かったのは、同期の岡部騎手である。成績的には勝ち鞍の数、格とも岡部騎手を若干下回る彼が、常に岡部騎手と並ぶ関東の名手とみなされ続けたことには、そんな背景があった。