1999-09-29から1日間の記事一覧

『君を忘れない』

1999年に死亡したパーシャンボールドの父パーシャンボールドは、全盛時には英愛種牡馬ランキングの5位に入り(1991年)、種牡馬としてはかなりの成功を収めた。父とそっくりということで伊達氏の眼にかなったパーシャンボーイも、そう質が高いともいえない繁殖…

『夜が明ける直前に』

産駒たちの活躍によって種牡馬生活にようやく光が射し始めたその瞬間、パーシャンボーイの運命は暗転した。 初年度産駒が活躍し、特にパーシャンスポットが5歳になってからもGlllで2度2着に入ったことで、1994年のパーシャンボーイへの種付け希望は順調に集…

『戦いいまだ終わらず』

現役を引退したパーシャンボーイは、新冠で種牡馬生活を送ることになった。パーシャンボーイの初年度の種付けは40頭であり、それ以降も39頭、36頭の繁殖牝馬を確保した彼の人気は、多頭数交配の技術が発達していなかった当時としては、決して悪くないものだ…

『残酷な運命』

こうして宝塚記念制覇を果たしたパーシャンボーイは、その後は放牧で春の戦いの疲れを癒し、秋には復帰してジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)を目指すとされていた。高松師は、1983年ジャパンCにキョウエイプロミスで挑み、2着に敗れている。「世界の夢を見たい。…

『外国産馬Gl初制覇』

同じようなタイミングで仕掛けたパーシャンボーイとメジロトーマスの決着は、馬体を合わせての叩き合いに持ち込まれた。メジロトーマスも、天皇賞・春(Gl)で2着に残った実績がある馬であり、そう簡単に脱落はしない。・・・だが、メジロトーマスは典型的なヨ…

『勝負が動く刻』

「行くなと言ったら、絶対に行かない。行けと言ったら、バーッと行く。人間の意思の伝達の分かる馬」 パーシャンボーイをそう評したのは、高松師である。高松師が太鼓判を押したとおり、パーシャンボーイは柴田騎手の意思を受け、前との差をつめにかかった。…

『天皇賞馬の異変』

伊達氏らが見守る中で、パーシャンボーイとその他16頭の宝塚記念は始まった。スタートしてすぐに先頭を奪ったのは、大方の予想どおり、ヤマノスキーとなった。ヤマノスキーは、当時の大レースでは必ず先導役を務めて、最後に失速するという役回りを演じる個…

『ひそやかな期待』

宝塚記念を前に調子を上げるパーシャンボーイは、直前の調教がまた凄かった。栗東に乗り込んでの追い切りで、芝のラスト3ハロン33秒0という驚異のタイムを叩き出したのである。高松師は、パーシャンボーイの仕上がりを見て、馬主の伊達氏に「宝塚記念は狙え…

『夏の乱気流』

この年の宝塚記念の出走馬をみると、例年の顔ぶれに比べて豪華さという点からは見劣りがしていた。絶対皇帝・シンボリルドルフの引退によって競馬界に訪れた戦国時代は、ミホシンザンの故障、シリウスシンボリの海外遠征などによってさらに混沌としたものに…

『悲運』

やがて日本へと降り立ったパーシャンボーイは、デビューのための育成を経て、美浦の名門・高松邦男厩舎へ入厩することになった。高松厩舎と伊達氏は古くからの盟友関係にあり、高松師の父である高松三太師の時代の名馬であるアローエクスプレスに関する数々…

『日出づる国へ』

パーシャンボーイは、1982年4月18日、競馬の本場・英国にあるダンチャーチ・ロッジ・スタッドで生まれた。パーシャンボールドを父に、英国の2勝馬クリプトメリアを母に持つパーシャンボーイは、パーシャンボールド産駒としては3世代目にあたる。 日本でのサ…

『父の代役』

パーシャンボーイを日本へ買い付けてきたのは、アローエクスプレス、ブロケード、ファンタストなど多くの名馬たちの馬主として知られ、近年でも1999年の桜花賞(Gl)勝ち馬プリモディーネを送り出したオーナーブリーダーの伊達秀和氏である。 伊達氏がパーシャ…

『忘れられた馬』

1998年夏、日本の競馬界は、2頭の日本馬による海外Gl制覇というニュースに酔いしれた。日本で調教されたシーキングザパール、タイキシャトルという2頭のサラブレッドが相次いで欧州へ遠征し、シーキングザパールがモーリス・ド・ゲスト賞(国際Gl)、タイキシ…

■第018話―哀しき時代の先駆者「パーシャンボーイ列伝」

1982年4月18日生。1994年4月2日死亡。牡。黒鹿毛。DunchurchLodgeStud(愛国)産。 父PersianBold、母Cryptomeria(母父Crepello)。高松邦男厩舎(美浦)。 通算成績は、11戦5勝(4-5歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)。 『外国産馬はGlを勝てない』 ―…