『君を忘れない』

 1999年に死亡したパーシャンボールドの父パーシャンボールドは、全盛時には英愛種牡馬ランキングの5位に入り(1991年)、種牡馬としてはかなりの成功を収めた。父とそっくりということで伊達氏の眼にかなったパーシャンボーイも、そう質が高いともいえない繁殖牝馬たちとの間に生まれた産駒から活躍馬を輩出したことからすれば、種牡馬としての潜在能力は十分あったと思われる。だが、現実には、パーシャンボーイは若くして逝き、その能力を花開かせる機会には恵まれなかった。彼の血は、血統図に母父としてごくわずかに残る程度でしかない。もしかすると、そんなわずかな血脈さえも、近い将来には淘汰されてしまうかもしれない。

 そして、血の宿命よりなお残酷なのは、彼に対する競馬ファンの記憶である。彼が宝塚記念(Gl)を制覇したのは1986年のことで、同じ年にGl制覇を果たした馬としては、サクラユタカオーダイナガリバーなどが有名である。後に種牡馬として成功した彼らの場合、彼らの血を引く子、孫が走るたびに、その父、祖父として、彼らの記憶も呼び起こされる。そんな繰り返しの中で、彼らの記憶は現在のファンの間にも、はっきりしたものとして残されている。しかし、それとは対照的に、パーシャンボーイの記憶は、種牡馬として対等の条件を与えられることもないまま、忘れ去られて歴史の片隅へと埋もれつつある。

 残念ながら、彼の産駒の走りを見て彼を思い出すことはもはやかなわない。だが、だからといって彼の記憶まで過去のものとして封印してしまうのでは、あまりにも悲しい。現在の外国産馬たちの隆盛は、過去に多くの外国産馬たちが実績を積み上げ、信頼を得てきたからこそ築かれた。それだけに、外国産馬として初めてGlを制したサラブレッドの歴史的意義は、小さくなるどころかむしろより大きくなっているはずである。

 もし強い外国産馬が走っている姿を見たら、1頭のサラブレッドのことを思い出してほしい。現代のファンを沸かせるその馬よりはるか昔に、果てしなき道を歩み続け、そして力尽きていった多くの馬たちがいたことを。そしてその中に、脚部不安に泣きながら、ただ一度のチャンスを掴んで外国産馬初のGl制覇という栄光に登り詰め、そして一生の運をそこで使い果たしたかのように、その後不運な生涯を閉じた悲しき時代の先駆者の一生のことを―。[完]

記:1999年9月29日 補訂:2000年9月13日 2訂:2001年8月17日 3訂:2003年4月16日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/