『悲運』

 やがて日本へと降り立ったパーシャンボーイは、デビューのための育成を経て、美浦の名門・高松邦男厩舎へ入厩することになった。高松厩舎と伊達氏は古くからの盟友関係にあり、高松師の父である高松三太師の時代の名馬であるアローエクスプレスに関する数々の逸話は、あまりにも有名である。

 入厩後しばらくの間のパーシャンボーイは、腰が甘いという欠陥があったため、デビュー時期は遅れて4歳2月までずれ込んだ。ようやくデビューを果たしたパーシャンボーイは、デビュー戦こそ5着に凡走したものの、2戦目、3戦目でいずれも2着に食い込み、素質の高さを示すとともに、周囲に「初勝利は時間の問題」という期待を抱かせるに至った。

 ところが、その後のパーシャンボーイは、早くもたいへんな苦難に直面することになった。初勝利は間近に思われた3戦目の後、彼は右後脚を骨折してしまったのである。このときの骨折は深刻なもので、彼を診察した獣医は

「競走馬として復帰できるかどうか・・・」

と言葉を濁した。パーシャンボーイは、才能が開花するどころかつぼみにもなっていない4歳にして、引退の危機に見舞われた。

 その当時、欧州の競馬界からは、パーシャンボールドの産駒が続々とGlを勝っている、という知らせが入っていた。パーシャンボールドの血統に目を付けた伊達氏の眼に、狂いはなかったのである。そこで、パーシャンボーイがもし競走馬として再起できないようならば、いっそのことこのまま種牡馬にしてしまう、という案も真剣に検討された。

 しかし、いくら良血の素質馬であっても、未勝利馬では種牡馬として成功することは難しい。伊達氏自身が自分の所有する繁殖牝馬を交配するにしても、他の牧場からもある程度の人気は集めたい・・・。こうして、パーシャンボーイは現役生活を続行することになった。