『残酷な運命』
こうして宝塚記念制覇を果たしたパーシャンボーイは、その後は放牧で春の戦いの疲れを癒し、秋には復帰してジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)を目指すとされていた。高松師は、1983年ジャパンCにキョウエイプロミスで挑み、2着に敗れている。
「世界の夢を見たい。ゆくゆくは凱旋門賞に出るような馬を育てたい・・・」
そんな夢とも野望ともつかない思いを胸に秘め、ジャパンCをその第一歩と考えていた高松師にとって、パーシャンボーイはキョウエイプロミスの無念を晴らす絶好の機会となる・・・はずだった。
しかし、パーシャンボーイは宝塚記念を最後に、二度とターフへ帰ってくることはなかった。パーシャンボーイは屈腱炎を発症し、戦線を離脱してしまったのである。屈腱炎とは、今でも多くの名馬の競走生命を終わらせ続けている競走馬の不治の病である。脚部不安のあるパーシャンボーイにとって、復帰から宝塚記念に至るまでの、4ヶ月間で8戦という戦いは、過酷すぎたのかもしれない。
約1年半にわたって復帰のための努力を続けたパーシャンボーイだったが、一度壊れた彼の脚が二度と元どおりになることはなかった。パーシャンボーイは復帰の夢を果たしえないまま、現役を引退して種牡馬入りすることになった。宝塚記念(Gl)は、パーシャンボーイにとって生涯ただ一度の重賞挑戦、そして最後のレースになった。パーシャンボーイにしてみれば、最初で最後の挑戦で見事に重賞、それもGlを手にしたことになる。
・・・しかし、競走馬としてはただ一度のチャンスをつかんでGl馬の栄光を手にしたパーシャンボーイだったが、後半生となる種牡馬生活では、競走生活のように栄光の座へと駆け登ることはできなかった。