『日出づる国へ』

 パーシャンボーイは、1982年4月18日、競馬の本場・英国にあるダンチャーチ・ロッジ・スタッドで生まれた。パーシャンボールドを父に、英国の2勝馬クリプトメリアを母に持つパーシャンボーイは、パーシャンボールド産駒としては3世代目にあたる。

 日本でのサラブレッドの取引は、馬主、あるいは馬主の意を受けた調教師らが生産牧場を訪ね、そこで有望な子馬を直接牧場から買うという「庭先取引」が主流を占めている。しかし、海外ではそのような取引は主流ではなく、馬がある程度成長してからセリ市に出す方法が一般的である。セリ市での取引は、価格の決定が競争原理に忠実に行われる点、取引の過程が誰の目から見ても明らかであるというメリットがあるとされており、海外の馬産地では、庭先取引のメリットよりもこれらが重視されている結果である。

 パーシャンボーイも、英国生まれのサラブレッドの主流として、2歳秋のセリで彼の才能を認めてくれる馬主を求めていた。そんな彼に目を留めたのが、日本からやってきていた伊達氏だった。

 伊達氏は、パーシャンボールドの子であるその馬が父とよく似ており、長所をよく受け継いでいる点が気に入った。また、当時のパーシャンボールドは、種牡馬としては未知数だったことから、手ごろな価格で買えそうなことも魅力だった。伊達氏は、すぐにこう考えた。

「パーシャンボールドを輸入できないなら、この馬を輸入して種牡馬にしよう」

 この子馬を日本で走らせた場合、「外国産馬」として扱われ、クラシックや天皇賞には出ることができないデメリットがある。しかし、伊達氏がこの子馬に求めるのは、クラシックや天皇賞に勝つことではなく、種牡馬入りしても恥ずかしくない程度の戦績を残してもらうことだった。オーナーブリーダーである伊達氏ならば、その程度の戦績さえ残してくれさえすれば、自分自身の手で種牡馬入りさせることも可能だった。

 伊達氏はこの馬のセリに参加し、見事に競り落とした。こうして後に「パーシャンボーイ」と名づけられる子馬は、日本へやってくることになった。