■第016話―皇帝のいない夏「スズパレード列伝」

スズパレード列伝

 1981年3月21日生。牡。鹿毛。柏台牧場(門別)産。
 父ソルティンゴ、母スズボタン(母父ロムルス)。富田六郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、25戦12勝(3-8歳時)。主な勝ち鞍は、宝塚記念(Gl)、中山記念(Gll)、オールカマー(Glll)、ダービー卿CT(Glll)連覇、金杯・中山(Glll)、福島記念(Glll)、ラジオたんぱ賞(Glll)。

 皇帝のいない夏―。ルドルフに五度(ごたび)屈しながらも夢を諦めなかった彼の夏が、始まる。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『皇帝世代』

 サラブレッドの強弱を語る時に欠かせない要素のひとつとして、そのサラブレッドが属する世代の強弱が挙げられる。日本の競馬体系は、まず世代限定戦から出発し、異世代との対決はクラシック戦線で同世代との決着をつけた後になる。そのため、同世代での対決では強く見えた馬でも上の世代との対決で馬脚を現したり、逆に同世代の中では二流とされていた馬が上の世代に混じって意外な健闘を見せてファンを驚かせることも、決してまれではない。強豪が揃った「強い世代」の中で埋没していた馬、逆に幸運に恵まれて「弱い世代」の中で栄冠を勝ち得た馬・・・様々なサラブレッドによる果てしなき戦いの過程の中で、ファンは、そして歴史は真に「名馬」と呼ばれるべき存在を選別していく。

 そうした過程をことごとく勝ち抜き、「日本競馬史上最強の名馬」との名誉をほしいままにしているのが、1984年に無敗のままクラシック三冠を制し、翌85年にかけてGl通算7勝を記録した「絶対皇帝」シンボリルドルフである。彼は、同世代との決着を「無敗の三冠達成」という形でつけたにとどまらず、その後も歴史上有数の「強い世代」とされる1歳上のミスターシービー世代の名馬たち、そして1歳下の世代を代表する二冠馬ミホシンザンなど、当時の日本競馬における一流馬をことごとく撃破し、中長距離戦線を制圧した。競走馬の体調、騎手の騎乗、天候、馬場状態、展開・・・流動するあらゆる不確定要素の中で勝ち続け、自らの絶対的な能力を結果によって証明したシンボリルドルフは、今なお多くのファンから信仰に近い畏敬を捧げられる名馬とされている。

 だが、その半面で、シンボリルドルフと同じ世代に生まれたサラブレッドたちは、シンボリルドルフとは違って厳しい評価に甘んじてきた。1981年に生まれた彼らの世代は「シンボリルドルフ世代」と呼ばれており、また他には呼ばれようがない。シンボリルドルフに負け続け、さらに上の世代、下の世代との対決においても常に苦渋をなめさせられ続けた彼らは、「弱い世代」という汚名を受ける羽目になっている。

 なるほど、シンボリルドルフを除く「シンボリルドルフ世代」の顔ぶれは、前後の世代と比べてかなり見劣りするといわなければならない。ビゼンニシキニシノライデンスズマッハ・・・。世代の一流馬といわれた彼らも、しょせんはGl未勝利である。ミスターシービーカツラギエース、ニホンピロウィナー、ギャロップダイナといった強豪が並ぶ「ミスターシービー世代」はいうに及ばず、ミホシンザンサクラユタカオータカラスチールが世代混合Glを勝っている「ミホシンザン世代」にも劣るといわなければならない。というよりも、「シンボリルドルフを除くシンボリルドルフ世代」に劣る世代を探す方が困難といった方がいいかもしれない。

 だが、同世代の馬たちがシンボリルドルフ、そして異世代の強豪たちに敗れ、次々とターフから消えていく中で、数々の敗北にあってもなお夢を諦めず、走り戦い続けた馬がいた。そんな彼がGlの大輪の花を咲かせた時、彼を苦しめ続けたシンボリルドルフはとうにターフを去り、彼自身も既に7歳(現表記6歳)になっており、彼の勝利がシンボリルドルフを除いた彼らの世代唯一の世代混合Gl制覇となった。

 皇帝のいない夏にようやく遅咲きの才を開花させた彼は、その後も戦い続けることに生きる意義を見出したかのように現役を続け、ターフを沸かせたのである。

 シンボリルドルフと同じ年に生まれ、同じクラシックを戦い、低い評価に泣きながらもついにはGlを手にしたその馬とは、1987年の宝塚記念スズパレードである。

『目立たない出生』

 スズパレードの生まれ故郷は、当時門別に存在していた柏台牧場という生産牧場である。柏台牧場は、後にオグリキャップの宿敵・スーパークリークを生産したことで有名になるが、当時はまだGl馬を輩出していなかった。

 スズパレードの母スズボタンは、競走馬としては4勝を挙げる実績を残していたものの、産駒たちの成績は今ひとつだった。スズパレードの上の3頭の兄姉は、いずれも特筆すべき成績を残していない。後にはスズドレッサー(父カツラギエース、中央5勝)やユウキスナイパー(父ミスターシービー、中央3勝)、クリールサンプラス(父イブンベイ、中央3勝)らを次々と送り出すスズボタンだが、スズパレードが生まれた当時は、血統的にさほど注目を集めてもいなかった。

 ただ、牝系の方は目立たないスズパレードだったが、父の方は人々の耳目を集めやすい悲劇に彩られていた。

『悲劇の父』

 スズパレードの父ソルティンゴは、社台ファームの総帥・吉田善哉氏の所有馬として伊仏で走り、15戦5勝、イタリア大賞(伊Gl)、ミラノ大賞(伊Gl)を勝ち、伊ダービー(伊Gl)2着という2400mの大レースで実績を残した。それらの実績を買われたソルティンゴは、種牡馬として日本へ輸入されることになった。日本での「種牡馬ソルティンゴ」に期待をかけていた人々は、彼にその後どのような運命が待ち受けているのか、知る由もなかった。

 輸入初年度の種付けシーズンを無事に終えたある日のこと、ソルティンゴはいつものようにパドックに放牧される・・・はずだった。ところが、担当厩務員のミスによって、ソルティンゴは彼の本来のパドックではなく、バウンティアスのパドックに放牧されてしまった。

 怒ったのは、バウンティアスである。彼にしてみれば、自分の縄張りを闖入者に荒らされた形となる。悪いことに、バウンティアスは当時の種牡馬の中でも名だたる激しい気性を持っており、怒り狂ってソルティンゴに襲いかかってきた。

 ソルティンゴは、怒りに燃えたバウンティアスに蹴飛ばされ、大けがを負ってしまった。しかも、怪我の箇所が悪く、種牡馬の命というべき受精能力をも失ってしまったのである。ソルティンゴの担当厩務員は、自らの失態に責任を感じたのか、事故の数日後に割腹して果てている。

 期待の種牡馬の将来だけでなく、担当厩務員の生命まで奪った悲劇に、社台ファームは悲しみに沈んだ。ソルティンゴについては、万に一つ回復するかも知れない、という淡い期待のもとに種牡馬登録を抹消せず、懸命の治療を続けたが、その熱意は実を結ぶことのないまま、スズパレードがデビューした1983年に死亡した。ソルティンゴは、わずかにスズパレードを含む1世代しか産駒を残すことができなかったのである。

『思ったより走るぞ』

 スズパレードは、こうして生産界の歴史から姿を消したソルティンゴが遺した忘れ形見たちの1頭であり、その意味でわずかに注目を集める程度の馬だった。生まれてきたスズパレード自身は、小柄な体格であまり見栄えがせず、地味な存在だった。

 ただ、スズパレードが育った柏台牧場には、他の牧場にはない特色があった。柏台牧場では、自然の地形を利用して、牧場の敷地内に大きな高低差をつけていた。

 柏台牧場は、当時ようやく日本で採り入れられ始めたばかりだった自然放牧を、他の牧場に先駈けて導入していた。おかげで、柏台牧場の中では、馬が移動する際には天然の「坂路」を越えなければならず、馴致前から自然と幼駒の腰が鍛えられるというメリットがあった。

 生まれながらに若干の脚部不安があったスズパレードだったが、彼は天然の「坂路」で鍛えられ、次第に隠された資質を発揮するようになっていった。やがて馬主、所属厩舎も決まり、中央競馬でデビューすることになったスズパレードは、デビュー戦こそダートで3着に敗れたものの、折り返しの新馬戦では芝に替わって何と9馬身差の圧勝を見せた。

 初勝利を挙げて意気上がるスズパレードは、その勢いを駆って400万下、オープン特別も勝ち、3連勝を飾った。3連勝の内容も、先行して直線で抜け出し、余力を残して勝つという横綱競馬ばかりだった。

 3歳戦を終えて4戦3勝3着1回ならば、「クラシックの主役候補」といっても十分に通用する。富田六郎調教師をはじめとする関係者たちは、

「この馬は、思ったより走るぞ」

と驚き喜び、これならばクラシックも夢ではない、とひそかに胸を躍らせた。そんな彼らのクラシックロードの始まりは、共同通信杯4歳S(Glll。年齢は当時の数え年表記)だった。

『無限の明日』

 スズパレード共同通信杯4歳Sに出走したものの、ここでのファンの注目は彼ではなく、同じく3連勝中で、しかもこちらは無傷の連勝中だったビゼンニシキに集中した。1番人気ビゼンニシキ単勝は140円で、2番人気スズパレードの440円を大きく引き離していた。

 そして、スズパレードはここで「世代の一流馬」と呼ばれる強豪の実力を知ることになった。ビゼンニシキを脅かすこともできないまま4着に敗れたことで、彼の連勝は終わりを告げた。クラシック戦線が近づくにつれて、無数の主役候補たちは次第に絞られ、真の主役と脇役との差がはっきりし始める。スズパレードもまた、この敗戦によって脇役へと分類されつつあった。

 もっとも、だからといってこの時点でクラシックを諦めるという選択肢は、スズパレード陣営には存在しなかった。もともと中距離血統のスズパレードが春のクラシックに出ずして、どんなレースに出ようというのか。

 スズパレードは、共同通信杯4歳Sの後は弥生賞(Glll)、皐月賞(Gl)、そして日本ダービー(Gl)という春のクラシックの王道を歩むことになった。だが、彼の王道での戦いは、彼の最大の不運・・・1984年クラシック世代に生まれたことの不幸を引き立たせるだけになるということを、彼を取り巻く人々はいまだ知らない。

『非運の名馬たち』

 スズパレードの次走・弥生賞には、彼だけでなく、この年のクラシック戦線で有力視されていた他の強豪たちも出走してきており、その中には共同通信杯4歳S(Glll)でスズパレードを破って無傷の4連勝を果たしたビゼンニシキの姿もあった。

 しかし、ビゼンニシキの鞍上には、共同通信杯までのパートナーだった岡部幸雄騎手の姿はなかった。他の馬の陣営からも騎乗依頼を受けていた岡部騎手は、4連勝で弥生賞に駒を進めたビゼンニシキを捨てて他の馬を選び、この日はその馬の鞍上にあった。

 シンボリルドルフ。岡部騎手がビゼンニシキとの間でもまったく迷うことなく選んだその逸材は、後に無敗のまま三冠を達成し、Gl7勝を挙げ、日本競馬界史上最強の名馬としてすべての栄光をほしいままにして「絶対皇帝」と呼ばれる運命を背負った馬だった。

 そして、弥生賞皐月賞はすべて「シンボリルドルフビゼンニシキ」という構図で戦いが繰り広げられた。休み明け18kg増のシンボリルドルフが、満を持したはずのビゼンニシキに永遠の1馬身4分の3差をつけた弥生賞、そして弥生賞の反動か、22kg減のシンボリルドルフに対し、意地と誇りをかけてビゼンニシキが挑み、

「ルドルフは苦しさのあまり斜行した」
「斜行がなければ、結果はどっちに転んだか分からない・・・」

 今なおそう語り継がれる皐月賞。これらの戦いは、いずれもシンボリルドルフに凱歌があがった。ビゼンニシキの潜在能力と完成度も相当のものだったと言わなければならないが、彼にしてみれば、巡り合わせがあまりに悪すぎた。

 では、そんな戦いの中で、スズパレードはどこにいたのか。・・・弥生賞皐月賞ともビゼンニシキの次の次、共同通信杯4歳Sと同じ4着に収まっていた。田村正光騎手を背にして臨んだこれらのレースで、スズパレードが「二強」を脅かすシーンはなく、健闘を称えられる着順ではあるにしろ、それ以上のものではなかった。

『皇帝の陰』

 皐月賞で4着に入ったことで日本ダービーへの出走を果たしたスズパレードだったが、それまでのレースでシンボリルドルフとは完全に勝負づけがついた形の彼に対し、ダービー制覇の期待は盛り上がらなかった。4番人気とはいえ、彼の単勝オッズは3000円近かった。というより、3番人気の馬でさえオッズは2000円を超え、焦点は単勝130円の断然人気を背負うシンボリルドルフに、同じく500円のビゼンニシキがどう挑むか、その一点に絞られていた感すらあった。

 彼が話題になったといえば、この日の21頭の日本ダービー出走馬たちの中には、スズパレードを含めて3頭のソルティンゴ産駒がいたことくらいだった。わずか1世代の供用で種牡馬としての生命を失ったソルティンゴが遺した42頭の産駒たちからこれだけのダービー出走馬が出たことは、まぎれもなくソルティンゴ種牡馬としての能力の高さを実証するものだった。そのことに気づいた馬産地の人々は、

ソルティンゴがもっとたくさんの仔を残していてくれれば・・・」

と、彼の悲運を惜しまずにはいられなかった。

 しかし、彼が注目を集めたのは、そこまでだった。この年の日本ダービーもまた、後世には「シンボリルドルフのためのレース」として語り継がれている。距離適性の差か、ライバルのビゼンニシキが大きく崩れて馬群に沈む中、シンボリルドルフも、向こう正面では岡部騎手の仕掛けにまったく反応せず、場内はどよめきに包まれた。だが、シンボリルドルフは第4コーナーを回ったあたりで、馬自身が勝負どころと判断すると、馬が勝手に動いて最後にはきっちり馬群を抜け出し、二冠を達成した。レース後、岡部騎手は

「馬に勝ち方を教えてもらった」

というコメントを発している。

 シンボリルドルフよりも常に前で競馬をしようとしたスズパレードだったが、彼が見せつけられたのは、どんな競馬をしても最後は冷酷にかわされ、突き放されてしまう己とシンボリルドルフとの絶望的な差だけだった。この日も4着だったスズパレードも、無様なレースをしたわけではない。他の世代に生まれてさえいれば、展開次第でクラシック戴冠の可能性もあったかもしれない。しかし、現実の彼の前には、常に若き日の皇帝がいた。

 日本ダービーの結果、もはや時代は二強ですらなく、1984年クラシック戦線、そして日本競馬界は、「シンボリルドルフ時代」へと突入していった。いつしか「絶対皇帝」と呼ばれるようになった無敗の二冠馬に、スズパレードを含めた他の馬がつけ入るスキは、もはや残っていなかった。

『福島へ』

 春のクラシックの有力馬たちは、日本ダービーの後に放牧に出されるのが常だが、スズパレードの場合はもう1回叩いた後に放牧することになった。秋の選択肢を広げるためには、本賞金をもっと加算しておく必要があったためである。

 スズパレードの次走は、ラジオたんぱ賞(Glll)に決まった。ラジオたんぱ賞は、競馬場の改修などの事情がない場合は、当時から福島で開催されてきた。福島といえば、スズパレードを管理する富田師の地元でもあった。

 しかし、ファンは春のクラシックで大崩れすることのなかったスズパレードの手堅い実力を十分理解してはいなかった。この日の1番人気は、皐月賞日本ダービーの4着馬ではなく、ダービーの裏でニュージーランドT4歳S(Glll)を制していたニッポースワローの手に落ちたのである。

 スズパレード陣営にしてみれば、この相手で自分の競馬ができれば負けるはずがないと思っていた。春はシンボリルドルフビゼンニシキといった強い相手と戦ってきたという思いがあるスズパレードにとって、このレースのメンバーでは、ニッポースワローを含めた全出走馬より格上と自負していた彼らにとって、不本意な人気だったことは間違いない。

 春のレースから、スズパレードの特徴は長くいい脚を使える半面、一瞬の切れ味に欠けることだと考えた田村正光騎手は、早めに仕掛ける積極策に出た。すると、前にいた馬たちが競り合って共倒れになった影響もあったとはいえ、自らの持ち味も十分出し切って馬群から鮮やかに抜け出し、2馬身半差の快勝を収めた。こうしてスズパレードは、富田師に地元での重賞制覇という大きな喜びをプレゼントしたのである。

 レースの後、田村騎手は

「他の馬とは鍛えられ方が違ってますからね。このメンバーで負けたら、僕の責任だと思っていましたよ」

と話している。この時点での彼らには、秋に向けた進路はまだはっきりと定まっていなかった。

『絶対皇帝、君臨す』

 たんぱ賞で重賞ウィナーの仲間入りを果たしたスズパレードは、秋緒戦に選んだセントライト記念(Glll)で、シンボリルドルフに4度目の対決を挑むことになった。

 シンボリルドルフの秋のローテーションについては、当時あまりの強さに

「もはや三冠を獲る必要すらない」

といわれ、菊花賞(Gl)は使わずに直接ジャパンC(Gl)へ向かう、という噂もささやかれていた。完全に勝負づけがついた相手とは、もう戦う必要すらないということであり、ここまでいわれたのでは、同世代の馬たちの矜持は形無しである。完全に勝負づけがついた・・・それは、春に関してはまったく事実であるだけに、余計に始末が悪い。菊花賞ジャパンCかはさておき、叩き台として出てくるシンボリルドルフに対し、スズパレードは誇りをかけて戦うしかなかった。

 スズパレードは、この時まだ本調子ではなかった。夏負けを起こして馬体が減った影響で、調教も十分ではなかったし、体調すら万全ではなかったのである。しかし、もはや自分たちと同じ土俵に上がってくれないかもしれないシンボリルドルフに対しては、どこかで目に物を見せなければ、戦士の一義がすたってしまう。

 そんな悲壮な決意で戦いに臨んだスズパレードだった。しかし、実際には、体調不良で挑んでくる馬などもはやシンボリルドルフの相手ではなく、絶対皇帝の牙城は磐石だった。レコードタイムで3馬身差の圧勝を演じたシンボリルドルフの前に、スズパレードはあっさりと返り討ちにあって6着に惨敗し、またしても厚い壁に跳ね返された。

 こうして前哨戦でシンボリルドルフに完膚なきまでに叩きのめされたスズパレードは、もはや皇帝にはかなわない、ということで菊花賞(Gl)を回避する羽目になってしまった。スズパレードと同世代、同馬主の馬の中には、血統的にも従兄弟にあたるダービー2着馬スズマッハがいた。馬主サイドは、

「万にひとつでも皇帝を破り得るとすれば、スズパレードではなくスズマッハだろう」

ということで、菊花賞スズマッハに任せてスズパレードは裏街道・・・ローカルの中距離戦線で一から出直すことになった。

『我が道を往く』

 スズパレードは、中央開催の中長距離戦線が菊花賞ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)という華やかな戦いに沸いている頃、陽の当たる中央開催に背を向け、美浦を離れて再び福島へと向かった。本来ならば自分も出走するはずだった菊花賞・・・その1週前に行われる福島民友C(OP)へ出走するためだった。

 しかし、スズパレード陣営の選択は、結果として吉と出た。シンボリルドルフの呪縛から逃れたスズパレードは福島の地で再生し、福島民友C、そして続く福島記念(Glll)を連勝したのである。弱い馬を相手に適距離で走ることができる裏開催でなければ、スズパレードの大成はなかったかもしれない。彼は、いよいよ本格化の兆しを見せ始めた。

 5歳になって中央開催へ帰ってきたスズパレードは、まず手始めに中山金杯(Glll)を楽勝し、単なる「福島巧者」ではないことを世に示した。レース前に

「4歳の後半を福島で使ってきたのは、この馬の力に合ったレースを選んだため。その間に、この馬は見違えるほど成長しました。この金杯に勝てば、本当の意味でのA級馬と言えるでしょう」

と意気込みを語っていた富田師だったが、福島民友C以来の3連勝、しかも着差も1馬身半、2馬身、3馬身と次第に広がっていくさまは、彼の言葉と自信を裏付けていた。もはや、かつての大舞台に弱いスズパレードではなかった。

『コンプレックス』

 だが、ようやく本格化し始めたスズパレードを待っていたのは、思わぬ運命だった。次走に予定していた中山記念(Gll)を直前にして、スズパレード脚部不安を発症してしまったのである。そのため、シンボリルドルフとの天皇賞・春(Gl)での再戦も不可能となってしまった。

 この年の春は天皇賞・春を大目標と考えていたスズパレード陣営の人々にとって、これは不運以外の何者でもなかった。しかし、スズパレード自身にとって、それはむしろ幸運だったのかもしれない。前年のジャパンC(Gl)で、カツラギエースの一世一代の大逃げの前に3着に敗れたシンボリルドルフの連勝は止まっていたが、その後の有馬記念(Gl)では、ミスターシービーカツラギエースらをまとめて粉砕し、さらに年が改まって日経賞(Gll)では、格下の相手に「競」馬とさえ呼ぶことがはばかられる馬なりの逃げで圧勝しており、絶対皇帝の進撃はとどまるところを知らなかった。

 当時のシンボリルドルフと同世代の有力馬たちを見ると、ビゼンニシキは故障して引退し、スズマッハはマイル路線への転進を図っていた。4歳春からシンボリルドルフと戦い続けてきた馬たちは、それぞれの形で苦しみ、追い詰められてきた。そんな中で、スズパレードだけが不運だったということはできないだろう。むしろ、スズパレードシンボリルドルフの強さを知るが故に、彼と戦うことを拒否したのかもしれない。

 結局スズパレードは、復帰戦となった天皇賞・秋(Gl)でシンボリルドルフともう1度戦ったものの、この時の彼は、まったく戦う意志を持たないかのようなだらしなさで、終始後方のまま15着に沈んだ。このレースでは、シンボリルドルフがニホンピロウィナーやウィンザーノットを競り落としたところでなんと準OP馬のギャロップダイナに急襲され、差し切られるという大波乱が起こった。しかし、シンボリルドルフの一つ上の世代の馬達が最後の最後まで打倒シンボリルドルフにすべてを燃やし尽くしたのに比べて、スズパレードをはじめとするシンボリルドルフと同世代の馬たちがシンボリルドルフに先んじることは、ついになかった。

『皇帝のいない日々』

 天皇賞・秋(Gl)ではまったく走る気を見せなかったスズパレードだが、この日の彼は、ひとつの出会いを果たしている。それは、この日初めて彼の手綱を取った蛯沢誠治騎手との出会いである。

 蛯沢騎手は、かつてはビゼンニシキの主戦騎手としてスズパレードと戦った男である。同郷の青森出身という縁で成宮明光師にかわいがられていた彼は、1975年に一度騎手免許を返上し、2年間をある牧場の一牧夫として過ごすという波乱の人生を送っていたが、やがて彼の才と心を惜しんだ成宮師の奔走と尽力により、ついに騎手としての復帰を果たしていた。ビゼンニシキは、成宮厩舎の所属馬であり、それゆえに騎乗が実現した、という側面もあった。

 ダービーで長距離適性に見切りをつけたビゼンニシキは、その後は古馬に混じってマイル戦線に活路を見出そうとしたが、故障によってその野望は夢に終わった。蛯沢騎手には古馬中長距離戦線では他にお手馬がおらず、その後はスズパレードに騎乗することになったのである。

 蛯沢騎手との新コンビを結成したスズパレードは、同じレースの出走表からシンボリルドルフの名前が見えなくなると、とたんに元気になった。当時12月に行われていたダービー卿チャレンジT(Glll)では、当時「無冠の大器」といわれていた後の天皇賞サクラユタカオーを一蹴して重賞4勝目を挙げた。一流どころには一歩届かないまでも、展開次第では番狂わせを起こし得る伏兵というのが当時のスズパレードに対する評価だった。

 しかし、その後慢性的な脚部不安をいよいよ悪化させたスズパレードは、2度目の長期休養を強いられることになってしまった。6歳となったシンボリルドルフは米国遠征で故障を発症して引退し、1世代下の二冠馬ミホシンザンも骨折で戦線を離脱したこの天皇賞・春(Gl)は、スズパレードにとってチャンス到来のはずだった。ところが、肝心のスズパレードがお付き合いして春を全休したのではどうしようもない。

 スズパレードが復帰を果たしたのは、秋の毎日王冠(Gll)からだった。このレースはかつて彼に一蹴されたサクラユタカオーがレコードで圧勝し、スズパレードは6着に敗れた。しかし、脚部への不安を考えて強いメンバーが揃った天皇賞・秋(Gl)やジャパンC(Gl)を避け、連覇を狙ったダービー卿チャレンジT(Glll)では、60kgの酷量を背負いながら連覇を達成し、見事に復活をアピールした。翌春も脚の爆弾と戦いながら重賞戦線の常連として活躍したスズパレードは、中山記念(Gll)も勝った。二流馬というにはあまりにも輝かしい重賞6勝目。もはや、この歴戦の古豪に足りない栄冠はただひとつ、Glのタイトルだけだった。

『最後のチャンス』

 常にシンボリルドルフビゼンニシキサクラユタカオーといった一線級の名馬たちと闘い続けてきたスズパレードも、気が付くともう7歳になっていた。悲願のGl制覇を実現するために、残された機会と時間は、そう多く残されていない。

 だが、富田師が春の大目標としていた安田記念(Gl)では、フレッシュボイスの鬼脚の前に見せ場もなく7着と完敗し、Gl制覇の夢はまたも遠ざかっていった。

 それでも夢をあきらめることができないスズパレードは、本来安田記念後に休養、という予定をたてていたものの、それを覆して宝塚記念(Gl)へと駒を進めることにした。スズパレードのGl挑戦は、通算はこれで6度目だった。

 この年の宝塚記念は、例年に比べると主役不在の混戦模様だった。春の天皇賞馬・ミホシンザン脚部不安のため出走せず(その後、そのまま引退)、本命と見られたのは天皇賞・春(Gl)で2着入線ながら斜行のため失格となったニシノライデンだった。ニシノライデンはGllこそ3勝していたものの、Gl勝ちの経験はない。また対抗視されたニッポーテイオーも、後に短中距離Glを3勝するとはいえ、当時はまだGl未勝利である。このレースに出走したGl馬は、安田記念馬のフレッシュボイスと、前年の天皇賞・春勝ち馬ながら、近走は不振のクシロキングだけだった。

 この日のスズパレードは3番人気だった。名中距離馬と呼ばれてもおかしくない戦績は持っていたものの、やはり主役には一息足りない超二流馬、というのが当時のスズパレードの評価だった。

『望み』

 ただ、この日の展開は、スズパレードにとっては願ってもないものだった。人気薄のシンブラウンが逃げを打ち、この馬に引っ張られて1番人気のニシノライデンと2番人気のニッポーテイオーが、カカリ気味に続いた。やがて彼らの位置関係は、ニシノライデンが前に出て、ニッポーテイオーがそれを見るような形に落ち着いたものの、この2頭は互いを意識し、牽制し合う流れとなった。

 実力馬2頭が互いに潰し合ってくれれば、3番手の出番となる。幸い、前の2頭は互いのライバルのことしか頭にないようだった。

 スズパレードと、彼の手綱をとる蛯沢誠治騎手は、前を行く有力2頭のさらに後ろで彼らを見ながらレースを進めた。彼はこの時、いつ勝負に出るか、そして勝負に出るときはどのような形に持っていくかを考えていた。というのは、前の2頭をどうやってかわすか、その作戦によっては、思わぬ勇み足になってしまうかもしれない可能性があった。

 蛯沢騎手は、最終的に目標となるのは、ニッポーテイオーの方だと考えていた。ニッポーテイオーを相手として考えるならば、馬体を併せた後にニッポーテイオーが発揮する、並んでも抜かせない勝負根性は脅威だった。かわす時は一気にかわさなければ、もともと強いニッポーテイオーに、さらに実力以上の根性が加わって、非常に始末が悪くなる。

 しかし、ここで問題となるのがニシノライデンとの位置関係だった。強烈な斜行癖があり、これまでになんと6回の処分歴があったニシノライデンが、この日も斜行しないという保証はどこにもない。もしスズパレードニッポーテイオーをかわしにかかった時にニシノライデンの斜行にでも巻き込まれようものなら、その時点でスズパレードの夢は、終わってしまう。

 蛯沢騎手は、天皇賞・春(Gl)ではアサヒエンペラーに騎乗し、ニシノライデンの斜行の被害者となっている。蛯沢騎手は、脚に爆弾を抱えながらもシンボリルドルフ世代の生き残りとしてこの日まで戦ってきたこの相棒に、なんとしても大きな勲章をプレゼントしてやりたかった。少しでも確実な勝利を、少しでも無難に勝ち取りたい・・・そのために彼は、勝機を待っていた。

『大輪の華』

 すると、蛯沢騎手の切実な思いが通じたのか、その後の展開は、スズパレードにとって非常に都合のいいものとなった。前を行くニシノライデンをかわしにかかったニッポーテイオーは、ニシノライデンのすぐ外につけたのである。蛯沢騎手は、とっさにスズパレードニッポーテイオーのさらに外へと持ち出した。ニッポーテイオーのさらに外から仕掛ければ、ニシノライデンがどうヨレたとしても、スズパレードは不利を受けようがない。

 ニシノライデンの斜行をおそれる必要がなくなったスズパレードの末脚は、ついに炸裂した。最初からカカリ気味に飛ばしてきたニッポーテイオーニシノライデンは、互いに競り合うのが精一杯だった。大外から飛び込んでくるもう1頭・・・彼らの目の内には入っていなかったスズパレードまで相手にする余力は、もはや残っていなかった。

 ニッポーテイオーニシノライデンをまとめてかわしたスズパレードは、その差を2馬身に拡げてゴールに飛び込んだ。

「勝つ時というのは、本当に楽に勝てるものなんですね」

とは、蛯沢騎手の勝利騎手としてのコメントだった。だが、ここに至るまでの関係者の道のりまで「楽だった」わけではない。シンボリルドルフ世代の数少ない生き残りとなった7歳の老雄は、ここに悲願のGl制覇という大輪の華を咲かせたのである。

『楽あれば苦あり』

 しかし、宝塚記念を制して悲願のGl制覇を果たしたスズパレードを待っていたのは、またしても苦難の道だった。激走の代償は、3度目の脚部不安発症だったのである。

 富田師は、後にスズパレードについて

「骨折以外の脚部不安は、すべて経験した」

と回想している。卓越した能力を持つスズパレードだったが、そうであればこそ、馬体・・・というよりは自らの能力をその脚で支え切ることができなかったのかもしれない。

 この時の休養は、既に7歳という高齢のためもあって、これまでにないほど長引いた。この年の秋はもちろんのこと、翌年の春も全休した。

スズパレードはこのまま引退するのではないか」

 そんな観測が流れたのも、当然のことだった。

『老兵は死なず―』

 しかし、スズパレードは不死鳥の如くターフへ還ってきた。8歳いっぱい走った後で引退、というプランのもとで、復帰のために全力が尽くされた。スズパレードも、レースが近付くと、まるでそのことが分かっているかのように、飼い葉を食べるのを控えて自ら実戦に耐える身体を作っていった。

 スズパレードの復帰戦となったオールカマー(Glll)の時、宝塚記念歓喜からはもう15ヶ月が過ぎ去っていた。スズパレード自身も、8歳の秋を迎えていた。

 競馬評論家を初めとするプロたちは、スズパレードの長すぎるブランクを不安視し、あまり高い評価をしてくれなかった。だが、一般のファンは、還ってきた歴戦の勇者のことを忘れておらず、スズパレードはこの日、天皇賞・春(Gl)2着馬・ランニングフリーや往年の二冠牝馬マックスビューティ等を抑え、堂々の1番人気に推された。調教技術の進歩によって、長期休養明けがかつてほどのマイナス材料にならなくなりつつあったとはいえ、よほど馬自身の実力が認められていなければ、この人気は勝ち取れない。

 そして、スズパレードは人気だけではなく、このレースで本当に勝ってしまった。しかも、この時の勝ち時計はコースレコードというおまけ付きである。奇しくもこの時の勝ち時計と2着との着差は、宝塚記念とまったく同じ2分12秒3、2馬身差というものだった。この時体調を崩して入院していた富田師は、病院のベッドの上から手塩にかけたスズパレードの復活劇をテレビで目にし、感動のあまり熱い涙を流した。

 だが、8歳という高齢、そして15ヶ月のブランクをものともせずに鮮やかな重賞8勝目を挙げたスズパレードにも、現役生活の終わりが確実に近づいていた。その頃、競馬界は、皇帝以来の新しい最強馬を得つつあった。「笠松から来た怪物」ことオグリキャップの影は、ひたひたとスズパレードの背後に迫りつつあった。

『―ただ、消え去るのみ』

 オグリキャップは、今や説明不要の期待のアイドルホースにして超一流馬である。公営笠松競馬で12戦10勝の成績を残して中央入りしたオグリキャップは、中央競馬でも出るレース出るレースで連戦に次ぐ連勝を重ねた。競馬の華というべきクラシックレースには、クラシック登録がなかったことから出走できなかったものの、裏街道で対戦する4歳馬たちでは相手にならず、古馬との混合戦に出走しても、やはり次々勝ちを重ねるという快進撃は、この時も続いていた。オグリキャップこそは、シンボリルドルフ以来久々に現れた競馬界の歴史的名馬だった。当時の競馬界の話題といえば、この怪物オグリキャップと、当時の最強古馬タマモクロスという2頭の芦毛のどちらが強いのか、という一点に絞られていた。

 脚部への配慮から天皇賞・秋(Gl)を回避し、ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)というローテーションを採ったスズパレードだったが、オグリキャップタマモクロスの一騎打ちにはまったく加わることもなく、見せ場も作れないまま大敗してしまった。

 そして、オグリキャップタマモクロスとの一騎打ちを制して天皇賞・秋ジャパンCの借りを返したことに沸いた有馬記念を最後に、スズパレードは予定通りに引退することとなり、シンボリルドルフ世代の最後の生き残りは、ひっそりと競馬場を去っていった。

『むかしがたり』

 終わってみれば、「シンボリルドルフ世代」のうちシンボリルドルフ自身を除くと、世代混合Glを勝ったのはスズパレードだけということになった。彼らは単に世代混合Glを勝てなかったというにとどまらず、シンボリルドルフとの対戦成績からいっても、1歳上の「ミスターシービー世代」の馬たちは2度シンボリルドルフを破っているのに対し、より対戦機会が多かった彼らは一度もシンボリルドルフに先着することができなかった、という意味でも差をつけられている。彼らの世代が、客観的に「弱い世代」に属することは、間違いないといわなければならないだろう。

 しかし、シンボリルドルフ世代の馬たちは、4歳、5歳というサラブレッドの成長期、完成期に、1頭の次元の違いすぎる馬と一緒に走らざるを得なかった。4歳春にルドルフ最大のライバルだったビゼンニシキは、文字どおり「潰され」、早い時期に引退している。また、故障に見舞われることなく古馬戦線へと進むことができた馬たちも、クラシック戦線でシンボリルドルフに粉砕されて自信を喪失した状態だった。彼らは、シンボリルドルフと同世代に生まれたという自らの運命に泣かされた犠牲者でもあった。

 彼らの中には、もし他の世代に生まれていれば、Glを勝てていた馬がいたかもしれない。・・・だが、それはあくまでも「たられば」の話であり、仮定と想像の上にのみ成り立つ可能性でしかない。実際には、彼らは「弱い世代」と評価され続けながらつらい現実を生きてきた。

 現在、スズパレードは従兄弟であり、僚馬でもあったスズマッハとともに、浦河のイーストスタッド種牡馬生活を送っている。スズパレードが2桁の産駒数を確保できたのは最初の2年だけで、その後の産駒数はずっと1桁に留まり、近年は種付け自体がほとんどなくなっている。産駒から新潟県競馬やアラブでの活躍馬は出たものの、そのことは種牡馬スズパレードに人々の目を向けさせるきっかけとはならなかった。

 ところで、スズパレードの生まれ故郷である柏台牧場は、後継者が得られずに閉鎖されてしまった。数々の名馬をターフへ送り出した名門牧場の跡地は、現在社台ファームに買収されて日高社台ファームとなっている。競馬界ではスピード偏重の傾向が顕著になり、一部の人気種牡馬の産駒に活躍馬が集中する様になった時代の中で、馬産界では中小牧場が次々と淘汰されて、廃業に追い込まれつつある。

 そんな時代の中で、時の流れに置いていかれたように寂しい種牡馬生活を送っているスズパレードは、人気を集めている輸入外国産種牡馬を尻目に、自分と同じようにシンボリルドルフ、そしてマイルに転じてからはニホンピロウィナーによって行く手を阻まれ続けた戦友スズマッハと、果たして、何を語り合っているのだろうか―。[完]