『千載一遇の時』

 天皇賞・春(Gl)3着の後、スズカコバン宝塚記念(Gl)へ向かうことになった。もっとも、当時の中長距離戦線は、既にシンボリルドルフ一色となっていた。天皇賞・春ミスターシービーとの決着を完全につけたシンボリルドルフにもはや「対等のライバル」はなく、宝塚記念を「ステップ代わり」として欧州遠征を決行する、というプランさえささやかれていた。Glといえども海外へのステップレース・・・そんな不遜なプランが誰からも不遜とはとられなかったこと、それがシンボリルドルフの強さであり、凄さだった。

 当時から、シンボリルドルフが出走したレースの出走頭数は、少なくなる傾向があった。他の陣営が

シンボリルドルフには勝てるはずがない」

と勝手に回避してしまうためである。この時もそうであり、宝塚記念が1985年の夏競馬のグランプリであるにも関わらず11頭だてという少頭数になったのは、ひとえに絶対皇帝に対する人々の畏敬ゆえであった。

 ・・・しかし、宝塚記念当日の阪神競馬場に、シンボリルドルフの姿はなかった。出走していれば圧倒的な1番人気となったことは確実だったシンボリルドルフだが、直前追い切りの後に脚部不安を発症し、急きょ出走を回避したのである。後で分かったところによれば、ただの肩凝りだったとのことだが、「シンボリルドルフ回避」という知らせは大きな衝撃として競馬界を駆け巡り、宝塚記念にエントリーしていた他の10頭の陣営は、途端に目の色が変わった。

 気がついてみれば、宝塚記念とはいっても、その出走馬たちの層は非常に薄いものとなっていた。当時といえば、中央競馬の様々な時代の中でも、スターホースたちが最も輝いていた時代のひとつに挙げられる。しかし、この日の出走馬の中には四冠馬ミスターシービーもいなければ、マイルの帝王ニホンピロウィナーもいなかった。そして、今度は絶対皇帝シンボリルドルフまでが、消えた。残された出走馬たちをみると、Gl(級)レースを勝った経験がある馬は、1頭もいなかった。これは、出走馬たちの立場になって考えれば、一世一代のチャンスだった。

 こうして突如訪れた「戦国」宝塚記念で1番人気に推されたのは、産経大阪杯ミスターシービーを破っているステートジャガーだった。190円という人気は、産経大阪杯以来約2ヶ月ぶりの実戦であること、終わってみれば産経大阪杯が唯一の中央重賞勝ちだったことからすれば、過剰人気と思えなくもない。しかし、当時のファンにとって「ミスターシービーを破った」という事実はそれほどに重いものであり、そのミスターシービーを木っ端微塵に粉砕したシンボリルドルフとは絶対的なものだったのである。

 スズカコバンは、ステートジャガーに続く440円で2番人気となった。彼に続いたのは、天皇賞・春(Gl)でルドルフの2着に入ったサクラガイセン、凱旋門賞馬サンサンの子として知られた「名血」ウィンザーノットだった。・・・これらの状況からも、この年の宝塚記念スズカコバンにとって唯一無二の好機だったことは推し量れよう。