『流れ種牡馬』

 ハクタイセイ種牡馬生活は、辛いものとなってしまった。ハイセイコーの血は、革新と淘汰が続く馬産界では、既に時代遅れのものとなりつつあったのである。

 静内で供用された初年度(1992年)は、26頭の繁殖牝馬に種付けして18頭の産駒を得るにとどまった。内国産種牡馬の場合、種付け頭数は初年度以降落ち込んで行くのが普通だから、初年度にこれというのは厳しい数字である。これが、ハクタイセイの人気の現実であった。

 1993年、ハクタイセイは、よりチャンスの多い活躍の場を求め、鹿児島へと旅立った。種牡馬の少ない九州の馬産界ならば活路を見出せるかもしれない、という意味合いを込めての移動だった。

 鹿児島での初めての供用の年、ハクタイセイは20頭に付けて16頭の産駒を得た。数の上では前年より減っているが、九州の馬産の規模を考えると、この数字は悪いものではない。皐月賞ハクタイセイはこのまま九州を安住の地とすることができるか、とも思われた。

 ところが、翌年(1994年)以降の種付けは激減し、サラブレッドとの種付けは年に2、3頭あるかどうかという状態になってしまった。理由は、この年に九州へマークオブディスティンクションが移ってきたことによる。マークオブディスティンクションは、この年68頭の種付けを行っている。まさに九州の繁殖牝馬がすべてマークオブディスティンクションに集中したかのような感を呈していた。ハクタイセイは、まともにそのあおりを受けたのである。

 結局、鹿児島にもハクタイセイの居場所はなくなってしまった。ハクタイセイは再び北海道に戻ってきた。しかし、北海道に戻ったハクタイセイの肩身はますます狭くなってしまっている。2年に一度くらいの割で居場所が変わるハクタイセイは、あちこちの種馬場をたらい回しにされているような感すらある、といってはいい過ぎだろうか。