『女の子がほしかった・・・』

 カツラギハイデンのふるさとは、三石の本桐にある大塚牧場である。大塚牧場は、明治35年開業という古い歴史もさることながら、その実績においても、第1回有馬記念をはじめ天皇賞菊花賞をも制したメイヂヒカリ、やはり菊花賞を制し、重賞5勝を含めて通算36戦13勝という戦績を残したアカネテンリュウなど、多くの名馬を輩出している。近年でも2002年の菊花賞ヒシミラクルを送り出したことは、記憶に新しい。

 カツラギハイデンの母サチノイマイは、そんな名門牧場が長年育ててきた、由緒ある牝系に属し、歴史を遡れば、戦前の馬産界をリードした小岩井農場明治40年に輸入したヘレンサーフまでたどりつく。サチノイマイの祖母、つまりカツラギハイデンにとっては曾祖母にあたるプレイガイドクインの代に大塚牧場へとやってきたこの牝系は、自らも4勝を挙げただけでなく、繁殖入りの後も17年間で14頭の子を出し、そのほとんどが勝ち上がるという子出しのよさと底力で大塚牧場の屋台骨を支えたプレイガイドクインの力で一気に広がりを見せた。プレイガイドクインの娘であるミチアサが、大塚牧場の生産馬を代表する名馬アカネテンリュウの母である。

 もっとも、当時この牝系の成績は今ひとつで、外部からは

「プレイガイドクインの系統はもう古い」

という評価も聞こえてきた。しかし、大塚牧場の大塚牧夫氏は、この牝系の底力は、まだまだ衰えていないと信じていた。この牝系からは、カツラギハイデンのみならず、後のオサイチジョージも輩出しており、この見立ては正しかったわけである。

 この牝系に生まれたサチノイマイも自身の競走成績は12戦未勝利というものにすぎなかったが、アカネテンリュウの全妹という血統背景もあって、牝系を継承する者として繁殖入りを果たした。カツラギハイデンは、そんなサチノイマイの第4子として生まれた。

 カツラギハイデンの父はボールドリックで、現役時代は英国2000ギニー、チャンピオンS優勝の実績を残している。また、種牡馬としても、フランスで供用されていた時代の産駒から愛ランドダービー馬アイリッシュボールや愛1000ギニー馬フェイバリットを、そして日本での初期の産駒からG制度導入前夜の1983年秋、東京3200mで行われた最後の天皇賞を制し、ジャパンCに日本馬として初めて連対を果たしたキョウエイプロミスを輩出し、なかなかの成功を収めた。

 大塚氏がサチノイマイの交配相手としてボールドリックを選んだ際には、むしろ牧場の跡継ぎとしての牝馬を作ることを考えていた。ボールドリックとの交配は、牝系としての価値を主眼においての配合だったのである。そんな期待に反し、血統名「サチノボールド」、後のカツラギハイデンは鹿毛の牡馬だったが、素晴らしい馬格をもち、いかにも走りそうな雰囲気を漂わせていたという。