『悲願』

 この年の牡馬クラシック戦線は、ミスターシービーシンボリルドルフミホシンザンと続いた名馬の時代が一息、といった感じで、近年にない混戦模様が続いていた。皐月賞日本ダービーという春のクラシックを独占したのは、日本最大の生産牧場である社台ファームの生産馬たちだったが、そのうち皐月賞ダイナコスモスの姿はターフになく、ダービー馬ダイナガリバーも、秋は凡走が続き、追い切りでの調子もお世辞にもいいとはいえなかった。

 春のクラシック馬たちがこうした状況では、菊花賞戦線が「どの馬が勝っても不思議はない」という情勢になるのもやむを得なかった。そして、「勝っても不思議ではない」馬の中には、メジロデュレンも含まれていた。この年の牝馬三冠戦線では、メジロ牧場が送り出したメジロラモーヌが春の桜花賞オークスに続いて1週間前にエリザベス女王杯をも制圧し、史上初めて、そして今もそれに続いた馬は現れていない牝馬三冠の快挙を達成した。そして、菊花賞メジロデュレンが引いた枠は、偶然にも1週間前にメジロラモーヌエリザベス女王杯で引いたのとまったく同じ6枠13番だった。

 「メジロ軍団」といえば、

「ダービーよりも天皇賞を獲りたい」

と広言した北野豊吉氏の言葉があまりにも有名である。また、メジロ軍団では、実際に牡馬については、馬が十分成長するのを待つために早仕上げを避ける傾向が強く、ことクラシックに関しては、有力馬が間に合わないことも多かった。

 だが、先の言葉が北野氏、メジロ軍団のすべてを物語っているわけではない。メジロ牧場の創設は、もとを正せばメジロオーのダービー惜敗を悔しがった北野氏が

「この悔しさは、自分が作った馬でダービーを勝つことで晴らす」

として決意したものである。また、メジロ軍団は、その長い歴史と裏腹に、その前年まで一度もクラシックを勝っていなかった。この年、メジロラモーヌ牝馬三冠を達成してこれまでの鬱憤を一気に晴らしてくれたとはいえ、牡馬クラシックはやはり牝馬クラシックとは異なる格別の趣があった。

 メジロ軍団を作りあげた北野氏は、1984年に亡くなっていた。彼が生前見ることのなかったクラシックの栄光・・・菊花賞のタイトルをメジロラモーヌ牝馬三冠とともに墓前に捧げるため、メジロデュレンはこの日、勝たなければならない理由があった。