『残されたもの』

 しかし、いい繁殖牝馬と高い種牡馬を持てば、たちまちいい成績を上げられる・・・というわけにはいかないのが馬産の難しいところである。モミジの子供たちはなかなか勝てず、ヴァイスリーガルに至っては失敗といっていい成績しか残せなかった。彼らへの期待が空振りに終わり、早田牧場新冠支場の成績はなかなか上がらなかった。

 早田牧場新冠支場の生産馬による初めての重賞制覇は、1986年のクイーンS(Glll)を待たなければならなかった。ヴァイスリーガルとモミジの交配にこだわり続けた早田氏がようやくその組み合わせを諦め、モミジの交配相手をロイヤルスキーに変えた途端に重賞を勝つのだから、馬産とはなんとも難しい。

 結局、早田氏は「ダービーを10年で獲る」という宣言を実現させることができなかった。それどころか、ダービーに出走馬を送り込むことすら果たせなかった。最初は不敵な宣言で名前を売った早田氏だったが、この時期は逆に馬産の難しさをつくづく思い知らされ、頭を抱えていたという。

 しかし、いまさら気づいたところで、後の祭りである。早田氏に残されたのは、

「10年でダービーを獲るはずだった早田さん」

という哀れみにも似た「悪名」だった。さすがの早田氏も、当時の情勢については

「恥ずかしくて表を歩けなかった」

と述懐している。

 レオダーバンが生まれたのは、早田牧場新冠支場の開業から10年が過ぎ去り、牧場の成果を上げたいと四苦八苦する早田氏の苦悩が最も深くなっていた時期のことだった。