『現実という嵐の中で』

 AJCCを最後に現役を引退することが決まったレオダーバンは、その後CBスタッドで種牡馬入りすることが決まった。レオダーバンの引退後も競走生活を続け、3度目の骨折を乗り越えたトウカイテイオーが奇跡の復活を遂げたこの年の有馬記念と同じ時期に、レオダーバンは翌年迎える2度目の種付けシーズンの準備に入っていた。

 種牡馬入りしたレオダーバンは、当初はマルゼンスキーの後継種牡馬として、馬産地の人気を集めた。毎年交配する繁殖牝馬は50頭を越え、産駒数も30頭台を確保した。繁殖牝馬の質についても、生まれ故郷である早田牧場新冠支場が初めてのGl馬、そしてクラシックホースのために繁殖牝馬を揃え、他の牧場が連れてきた繁殖牝馬も、それなりのレベルを保っていた。

 実際に産まれたレオダーバンの子供たちの評判は、決して悪いものではなかった。通常は種牡馬の人気が落ち込む3年目、初年度産駒デビュー直前の種付けでも、レオダーバンは前年並みの人気を集めている。これは、それまでに生まれた産駒の質が合格点に達していたことの証明にほかならない。

 しかし、実際に競馬場でデビューした産駒たちの戦績は芳しいものではなかった。レオダーバンと同じ年に産駒をデビューさせた内国産種牡馬といえば、メジロライアンダイタクヘリオスがいる。初年度からメジロドーベルメジロブライトといった大物を出したメジロライアンや、目立たぬながらも堅実に走る子を出し、ついに晩成の短距離王ダイタクヤマトを輩出したダイタクヘリオスと違って、レオダーバンの産駒成績はうら寂しいものだった。

 産駒が走らなければ、種牡馬の人気は落ちるのが当然である。人気の低下は交配牝馬の数、質両面での低下につながり、それらはさらなる産駒成績の低下を招く。レオダーバンの後ろ盾だった早田牧場新冠支場も、レオダーバンの産駒成績の不振に加え、牧場が最盛期を過ぎ、その成績に翳りが出てくると、レオダーバンを支えていく余裕もなくなっていった。

 最初はCBスタッドにいたレオダーバンだが、その後はトヨサトスタリオンステーションを経て現在はマルゼン橋本牧場に移っており、早来の地で細々と種牡馬生活を送っているようである。もはや、彼の産駒数は多くなく、種牡馬としてのチャンスも限りなく小さいというのが正直なところだろう。