『おい、お前のおとっつぁんは凄い馬だったんだぞ』

 生まれたばかりのダイユウサクは、なかなか将来への期待を抱かせる存在だった。彼の馬体はバランスが取れており、たまたま馬を探すために優駿牧場に来ていた中央競馬内藤繁春調教師が目をつけ、すぐに自分の厩舎で引き取るよう決めてくれたほどだった。内藤師は、ダイユウサクについて

「うまくすれば準オープンあたりまでいけるかもしれん」

と話していたという。安い馬の中からそこそこ走る素材を見つけるという点での相馬眼には定評があった内藤師の太鼓判は、優駿牧場にとってもありがたいものだった。

 ところが、成長するにつれて、ダイユウサクは牧場の人々の期待を裏切るようになった。成長したダイユウサクの動きからは、競走馬としての成功を予感させる何かがいっこうに良えてこなかった。それどころか、生まれた時には良かったはずの馬体のバランスさえ、成長するとともにどんどん悪くなっていったのである。

 当時のダイユウサクは、サラブレッドとしては相当の遅生まれといえる6月12日生まれということを差し引いても、かなり小柄な方だった。馬格は、同期の馬たちと比べると明らかに見劣りがしていた。体質も弱かった上、腰の甘さもひどかった。強く追うとすぐにばてて体調まで崩すため、ある程度成長するまで、ろくに追うことさえできなかったという。

 出生前からダイユウサクに期待していた当時の牧場長は、実際のダイユウサクのあまりの惨状に、ため息をつかずにはいられなかった。彼は、日ごろからダイユウサクを捕まえて

「おい、お前のおとっつあんは凄い馬だったんだぞ。お前のおばあさんも6つも勝ち鞍を挙げているんだ。お前にはヒンドスタンやダイコーターネヴァービートの血が流れているんだぞ」

と、とくとくと言い聞かせていたという。どんな馬にもとりえはあるもので、当時のダイユウサクは、そんなお説教も嫌な顔ひとつせずに聞くほどおとなしい馬だった。ただ、そのおとなしさが災いしたのか、ダイユウサクは同期の馬たちからはいつも仲間外れにされ、寂しそうに1頭だけぽつんといることが多かった。

 このように、牧場時代のダイユウサクの評判は散々なものでしかない。仕上がりも遅く、牧場から栗東トレセンへと無事に送り出された時は、同期の馬たちのかなりが競馬場でデビューを果たした3歳12月になってからのことだった。