『賢弟愚兄?』

 種牡馬となったメジロデュレンは、引退して1年間はメジロ牧場でゆっくりと静養し、種牡馬としての体作りに専念した。メジロデュレンが種付けを開始したのは、1990年春からのことだった。・・・当時はステイヤー種牡馬に対する評価がまだ高かった最後の時代だった。メジロデュレンの初年度交配数は約30頭、次の年は約50頭だった。半弟メジロマックイーンが大活躍したことも、メジロデュレン種牡馬としての人気を後押しした。

 しかし、メジロデュレンの子供たちは、人々の期待通りに走ってはくれなかった。メジロ牧場のバックアップはあったものの、それだけではどうにもならない。時代がスタミナ重視からスピード重視へと移行しつつあったことも手伝って、ステイヤー種牡馬であるメジロデュレンへの希望は、どんどん小さくなっていった。産駒が走らないメジロデュレンは、早々と馬産界から見切りをつけられていった。

 結局、メジロデュレンは1995年には種牡馬生活から引退することになってしまった。残された子供たちの中からは、父の名を高らしめるような子はついに現れなかった。

 その一方で、メジロデュレンと入れ替わるように競馬界にデビューした半弟のメジロマックイーンは、天皇賞・春(Gl)連覇、菊花賞(Gl)、宝塚記念(Gl)制覇という輝かしい戦績を残した。父がフィディオンからメジロティターンに代わったことで「父子三代天皇賞制覇」の金看板を得たメジロマックイーンは、「異系の血統」ということも評価され、不安材料として語られていた「兄の失敗」もどこ吹く風で、種牡馬としては恵まれた生活を送っている。「異系の血統」という意味では兄のメジロデュレンもそう変わりないはずだったが、こうも残酷なまでに評価が分かれるのは、馬産の厳しい現実である。同じ母から生まれ、競走馬としてはともに素晴らしい実績を上げた兄と弟だったが、その引退後については雲泥の違いとなってしまった。