『生きる』

 しかし、種牡馬として失敗してしまったメジロデュレンが血統図に名を残すことは、望み薄である。繁殖入りした娘が大物を出す可能性も、娘たちの総数を考えると限りなく小さい。長距離Glを2つも勝った彼の名は、このままファンたちの間から忘れ去られてしまうのだろうか。

 メジロデュレン有馬記念を勝ったのは、1987年のことである。空前の競馬ブームが巻き起こり、それまでいかがわしいギャンブルとしてみられていた競馬場へ普通の人々が足を運びはじめたのは、1988年、笠松から来た4歳馬のオグリキャップによって始まった空前の「オグリ・ブーム」がきっかけだった。つまり、メジロデュレン有馬記念を勝つ1年後のことである。

 この1年のタイムラグが、メジロデュレンにとっては致命的だったのかもしれない。「オグリ・ブーム」によって一気にそのすそ野を広げた競馬ファンだが、そのすそ野の部分である若いファンは、悲しいかなメジロデュレンの最盛期を知らなかった。

「マックは知ってるけどデュレンなんて知らない」

 そんなファンが多いのも、こうした時代のめぐり合わせに原因があるのかもしれない。

 しかし、競馬ブームの前であろうと後であろうと、菊花賞有馬記念という大レースの価値に変わりはない。これらを勝った馬の強さについても然り、である。

 メジロマックイーンの強さ、偉大さについては、おそらくこれからも多くのファンによって語り継がれていくに違いない。だが、メジロデュレンの強さについてはそうはいかない。メジロデュレンは、そのうち「歴代菊花賞勝ち馬」「歴代有馬記念勝ち馬」の中に名をひっそりと残すだけの馬になってしまいかねない。それも、自らの強さではなく「あのメジロマックイーンの兄」としてしか語られない馬に。

 競馬における競走馬の死は、3つあるといわれる。一つ目は、馬自身の死。二つ目は、馬の残した血統の滅亡。そして三つ目は、馬の思い出が忘れ去られること。

 一つ目の死は、早かれ遅かれどの競走馬にも等しく訪れるものであり、その運命を避けることはできない。また、種牡馬として失敗したメジロデュレンに第二の死が訪れることも、もはや避けられないといわなければならない。しかし、第三の死は、私たちの手によって回避させることができる。

 私たちは、メジロデュレンに第三の死が訪れないよう、メジロデュレンを後世に語り継がなければならない。「メジロマックイーンの兄」ではなく「メジロデュレンそのもの」として―メジロデュレンの現役時代を知っている者はそれを友に語り、知らない者はそれを聞き、そしてまた知らない友に伝えていかなければならない。それが、兄弟でありながら弟とはあまりに違った扱いのまま競馬界を去っていったメジロデュレンへの、せめてもの手向けである。メジロデュレンの思い出が語られ続ける限り、メジロデュレンの存在が競馬界から滅び去ることはない。[完]

記:1999年1月31日 補訂:2000年8月4日 2訂:2003年06月15日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/