『別離(わかれ)を乗り越えて』

 レガシーワールドは、AJCC(Gll)でホワイトストーンの2着に敗れた後、骨折が発覚して長期休養に入ったが、その間に管理調教師だった戸山師は、ガンに倒れた。戸山師のガンはもう手の施しようがないほどに悪化しており、もう馬をみることはできなかった。こうして戸山厩舎は、実質的に森秀行調教助手によって切り盛りされるようになった。結局戸山師が亡くなった後、戸山厩舎は森調教助手によって受け継がれることになり、レガシーワールドもその時森厩舎所属となった。

 そして、森調教助手が実権を担うとともに、レガシーワールドの身辺にも変動が生じた。それまでは「所属馬には自分の弟子を乗せる」という戸山師の方針の下で、小谷内秀夫騎手か小島貞博騎手が乗っていたレガシーワールドだったが、騎手についてもドライな実力主義を取り入れるべきだ、と考えていた森師の下で、この方針は転換された。骨折から帰ってきたレガシーワールドは、復帰戦の京都大賞典(Gll)では河内洋騎手との新コンビを結成し、メジロマックイーンの2着となった。このレースはメジロマックイーンの最後だが、メジロマックイーンに2分22秒7のレコードを叩き出されては負けも仕方がなかった。

 天皇賞には出られないレガシーワールドの目標は、この年もジャパンC(国際Gl)に置かれた。後にシーキングザパールで史上初めて日本調教馬による海外Gl制覇を成し遂げる森師は、もともと世界への進出に意欲的で、翌年には早くもフジヤマケンザンを香港へ連れていった。そんな森師にとって、当時の管理馬の中で最強といえる馬でありながらセン馬であるが故に活躍のチャンスが限られているレガシーワールドの実力を認めさせるために、ジャパンCは何としても勝ちたいレースだったことだろう。