『―おめでとう』

 しかし、ゴール前で猛然と追い込んできたのは、的場騎手が恐れていたサクラホクトオーではなかった。前走の400万下(現500万下)を勝ち上がったばかりで、重賞初挑戦を皐月賞に持ってきたウィナーズサークルだった。過去に挙げた2勝はいずれもダートでのもので、ドクタースパートと同様この日の馬場は苦にしないタイプである。そして、ウィナーズサークルの鞍上である郷原洋行騎手は、的場騎手にとっては兄弟子であり、「剛腕」と称された追込みの名手だった。

 得意の馬場を味方につけてここまで走ってきたドクタースパートだったが、この時はさすがに脚が上がりかけていた。ウィナーズサークルの強襲に耐え抜く脚は、とても残っていない。みるみる彼らの間隔を詰めてきたウィナーズサークルは、ゴール板の前でドクタースパートを完全にとらえた。

 ・・・ゴール板を駆け抜けた後では、ウィナーズサークルは完全にドクタースパートの前に出ていた。問題は、ウィナーズサークルドクタースパートをかわしたのは、ゴール前なのか、それともゴール後なのか・・・。

 騎手は、たとえ写真判定になる時でも、ゴールした瞬間に、直感で自分の馬の勝敗が分かるという。しかし、この時の的場騎手は、ウィナーズサークルとの勝敗については全く確信が持てなかった。

「勝ったんじゃないか」

とは思っても、それが直感なのか、それとも願望にすぎないのかは、的場騎手自身まったく区別できなかった。

 しかし、そんな彼に対して最初に声をかけてきたのは、ウィナーズサークルを追うのをやめ、スピードを緩めて振り返った兄弟子だった。兄弟子の言葉を聞いた時、的場騎手は初めて自分がクラシックを制したことを確信したのである。

「―おめでとう」

 泥だらけの芦毛馬の追撃を半馬身だけ凌いだドクタースパートは、こうして皐月賞馬となった。道営出身の馬が中央のGlを制したのは、当然のことながらこれが初めての快挙だった。

 ところで、勝ち馬が道営出身のマル地馬なら、2着のウィナーズサークルも、それまでダートでしか勝ち星がなかった。勝ちタイムは2分5秒2であり、馬場状態の差こそあれ、タイムだけを見ると、何十年前の競馬と思われても仕方がない。(シンザンの勝ちタイムが2分04秒1)。水をたっぷりと含んだ状態で散々踏み荒らされた芝コースは、もはやダートコース同然だった。

 ちなみに、このとき13着だった馬が、後にJRAの最高齢出走記録を塗り替え続けることを、当時の人々は知る由もない。19着に沈んだ1番人気のサクラホクトオーに先着したその馬は、9年後の1998年銀嶺S(OP)ではサクラホクトオー産駒のサクラスピードオーに先着し、父子二代に先着するというとんでもない珍記録をうちたてるミスタートウジンである。