『先の見えぬ闇』

 こうして皐月賞馬となったドクタースパートだが、その後の彼を待っていたのは、あまりに長いトンネルだった。

 皐月賞に続く日本ダービー(Gl)では、波乱となった皐月賞の結果が例年のように直結するとはみてもらえず、1番人気が重賞未勝利のロングシンホニー単勝600円という、空前の本命不在の混戦となった。そんな中で、皐月賞馬でありながら4番人気の低評価に甘んじたドクタースパートは、中央入り後、初めて連対を外す14着という大敗を喫してしまった。勝ったのは、皐月賞で2着だった3番人気のウィナーズサークルであり、史上初の芦毛のダービー馬が誕生する結果となった。

 ダービーの後、休養に入ったドクタースパートは、菊花賞には間に合わず、富士S(OP)から始動することになった。このレースは、ドクタースパートの父ホスピタリティが生涯唯一の敗北を喫したレースであり、息子が父の雪辱を果たせば実に格好良い結末となる。・・・しかし、世の中はそんなに甘くなく、ドクタースパートしんがり負けに終わってしまった。

 その後のドクタースパートは、有馬記念(Gl)では勝ち馬イナリワンから2秒7離され、16頭だての14着に沈んだ。当時の競馬界は、この年Glを3勝して年度代表馬に選ばれた南関東出身のイナリワン有馬記念こそ5着に敗れたものの、常に競馬界の中心にあって「オグリ・ブーム」を巻き起こした笠松出身のオグリキャップという2頭の年上のマル地馬が大活躍していたが、彼らの華やかな活躍の中で、道営出身のドクタースパートの影はかすんでいった。

 5歳になってからのドクタースパートは、得意の馬場での復活を目指し、ダートの帝王賞に出走してみたり、重馬場のオールカマー(Glll)に賭けたりもした。それでも、復活どころか掲示板にすら載ることができない。

ドクタースパートは、終わった・・・」

 いつしか誰もが、そう思うようになっていた。