『気楽に乗れそう』

 ラッキーゲランは、5戦2勝で阪神3歳S(Gl)へと進んだ。しかし、この日人気を集めたのは、牝馬ながらデイリー杯を制した実績を買われたアイドルマリー、1戦1勝ながら、2億6500万円で落札された話題馬モガミショーウンを撃破しての新馬戦での勝ち方が注目を集めたセンリョウヤクシャあたりだった。夏に2勝したものの、その後の戦績はいまひとつだったラッキーゲランは、この時点ではあまり注目される存在ではなかった。

 ラッキーゲランは、この日は7頭だての少頭数でありながら、単勝1550円の5番人気にとどまった。ラッキーゲラン単勝馬券の売上金額は、1番人気アイドルマリーの単勝の10分の1以下だった。この認識は別にファンのみのものではなく、北海道での連勝の後、栗東へ帰ってきてからの2戦に続いて鞍上に迎えられた村本善之騎手も「気楽に乗れそう」などといっていたほどだった。

 池江師から

「行けるようなら(先頭に)行ってくれ」

という指示を受けていた村本騎手が気合をつけると、ラッキーゲランは楽に先頭に立ってレースを引っ張った。からんでくるかと思われたセンリョウヤクシャもあっさり引き下がったため、気持ちのよい単騎逃げとなった。

『素質だけで』

 しかし、池江師の当初のラッキーゲランに対する見立ては

「まだまだ馬が若い。本格化するのは先になるやろ」

というものだった。当時のラッキーゲランは、同世代の馬たちに比べて成長度が抜きん出ていたわけではなかった。それだけに、ラッキーゲランが早めに仕上がり、8月の函館開催で使えるようになったというのは、意外ですらあった。

 ラッキーゲランは、デビュー戦こそ凡走したものの、折り返しの新馬戦、そしてコスモス賞と連勝を飾った。いずれもスタート直後に先頭に立つとそのまま押し切る、典型的な逃げ切り勝ちだった。その後池江師や騎手たちは、なんとか抑える競馬も教えようとしたが、馬はなかなか従ってくれない。結果が出ない。早々とあげた馬に任せての2勝は、いわば「素質だけで」勝ったレースだった。

『大穴血統』

 ラッキーゲランが生まれたのは、新冠のロイヤルファーム(現・ビッグジャパンファーム)というところである。

 ラッキーゲランの母プリティゲランは現役時代不出走だが、ミスブゼンに遡るその牝系は多くの活躍馬を出している。この牝系は、日本の誇る「大穴血統」としても知られ、最近では1999年秋の秋華賞(Gl)でブゼンキャンドルが大穴をあけたのは、記憶に新しいところであろう。さらに、1988年のオークス(Gl)を10番人気で制したコスモドリームも、牝系を遡れば、この一族にたどりつく。コスモドリームの母の父は、ラッキーゲランの父ラッキーソブリンであることを考えると、その血統構成も、ラッキーゲランとそう遠いものではない。なお、6頭だての5番人気で阪神大賞典(Gll)を勝ち、種牡馬としてもGl馬(ナリタホマレ:1998年ダービーグランプリ[統一Gl])の父となったオースミシャダイも、この一族である。

 一方、父のラッキーソブリンは地味ながらも堅実な成績を残した種牡馬である。現役時代の15戦1勝という戦績を見ると、魅力に欠ける二流馬とも思いがちだが、唯一の勝ち鞍は英国ダービーの前哨戦ダンテS(英Glll)であり、さらに愛ダービーではザミンストレルの2着に食い込んだ実績がある。・・・とはいえ、現役時代は燃焼しきれないまま終わった感があることは否めないラッキーソブリンの資質は、種牡馬になってから開花した。ラッキーソブリンの日本での種牡馬生活は、現役時代の実績からすると考えられないほどの成功を収め、全盛期にはサイヤーランキングのベスト20の常連としての地位を占めた。

 このように、ラッキーゲランの血統は派手さこそないものの、当時の馬産の水準からみて、走っても不思議ではないレベルには達していた。生まれたラッキーゲランは、気性がやんちゃで手を焼かせるという欠点はあったが、馬体を実際より大きく見せる風格があり、牧場の人々は、その姿に将来の期待を感じていた。

 そんな周囲の期待を反映して、ラッキーゲランは当歳時に早くも栗東池江泰郎厩舎に入厩することが決まった。ラッキーゲラン当歳の1986年といえば、池江師にとってはメジロデュレン菊花賞(Gl)を制した年にあたる。人気厩舎からいい馬の入厩を決めていく競馬界の常識からいって、上り調子の池江厩舎にあっさりと入厩が決まったという事実は、ラッキーゲランが当歳時から光るものを持っていたことの証となるだろう。

『幾つもの悲運を経て』

 1988年(昭和63年)の勝ち馬ラッキーゲランは、現役時代は「ラッキー」というその名に反して多くの悲運につきまとわれた馬だった。当時、阪神3歳Sを勝って西の3歳王者に輝いた馬はいわば「関西の総大将」としてクラシックに乗り込んでいくのが宿命とされていた。しかし、翌平成元年の4歳クラシック三冠レースでは、出走馬の中に西の3歳王者の姿を見いだすことはできなかった。ラッキーゲラン阪神3歳S後に発症した脚部不安によって、ほぼ1年間を棒に振り、クラシックの舞台を踏むことさえもできなかったのである。

 ただ、クラシックで様々な悲運があったということは、これまでに紹介した阪神3歳S馬たちの中にも珍しくなかった。ラッキーゲランが彼らと違う点は、その試練を乗り越えて見事に復活を果たしたことである。彼は4歳時をほぼまるまる棒に振った脚部不安から立ち直り、復帰後も重賞2勝を含む5勝をあげた。

 ラッキーゲランの通算成績は42戦8勝、重賞3勝である。この数字は歴代阪神3歳S馬の中では出色のものであり、あるいはその実績に敬意を表して今回の列伝からはあえて省いたサッカーボーイ(通算11戦6勝、重賞4勝)と並べても、それほど見劣りしないはしないものといえるかもしれない。

 しかし、彼にはサッカーボーイと決定的に違う点があった。彼はなぜか、走っても走ってもその実力が評価されることはなかったのである。ラッキーゲランの戦績表をまじまじと眺めてみると、とんでもないことが分かる。彼は42回も走ったGl馬であるにもかかわらず、1番人気に支持されたのは1回だけであり、3番人気以上に支持されたことすら8回しかない。

 彼は穴馬、穴馬と言われてはいるが、たった1回だけ1番人気に支持された函館記念(Glll)では、人気にこたえて優勝している。また、3番人気以上に支持された8回のレースについても、そのうち5回は優勝している。彼は人気のときに走らなかったのではなく、人気のときはそれにこたえ、不人気のときにもたまに穴をあけるという、実に使い勝手のいい馬だったのである。

 しかし、人間たちは、勝っても勝っても彼を評価しなかった。馬券上の低評価ならば、まだ馬には関係がないかもしれない。だが、その低評価は引退に及んで彼を直撃した。彼はこれほどの実績を残しながらも彼は引退後種牡馬入りすることすらできず、乗馬とされてしまったのである。こうしてラッキーゲランの血を継ぐ若駒たちがターフに戦士として還ってくる希望は幻に終わり、彼の血は永遠に封印されてしまった。

 そんなラッキーゲランに最後に救いの手が差し伸べたのは、つま恋乗馬センターだった。同センターが彼を求めたのは種牡馬としてではなく、乗馬としてだった。今、彼はそこにいる。しかし、それは彼にとって不幸なことではなかった。同センターは現役時代に報われなかった彼が、幾つもの悲運を経ながらついに勝ち取った、安住の地なのである。

□第026話 後編1―「ラッキーゲランの章」

 1986年4月29日生。牡。栗毛。ロイヤルファーム(新冠)産。
 父ラッキーソブリン、母プリティゲラン(母父ネヴァービート)。池江泰郎厩舎(栗東)。
 通算成績は、42戦8勝(3-8歳時)。主な勝ち鞍は、阪神3歳S(Gl)、毎日王冠(Gll)、函館記念(Glll)、コーラルS(OP)、トパーズS(OP)、巴賞(OP)。

 ―悲しいかな日本競馬の懐はそこまで深くはなかった。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『戦いに生きて』

 ゴールドシチーの骨折の原因は、骨折の瞬間を目撃した人がいないため、推測に頼るよりほかにない。他の馬に蹴られた、不注意で柵にぶつかった、その他いろいろな理由が考えられるものの、上腕部という不思議な骨折の個所、そして発見されたときの状況からは、いずれも考えにくいという。

ゴールドシチーは自殺したんだ」

という説が語られるのも、それゆえである。

 現役時代の同馬を管理した清水師は、彼の最期の状況を知って

「一生わがままを貫き通して死んでいったんやろうね」

と漏らしたという。現役時代もわがままで、馬のくせに早起きが大嫌いだったため、他の馬が朝の調教をとっくに終えた午前10時を過ぎないと、決してトレセンに現れない「午前10時の男」として有名だったゴールドシチーは、自分が現在置かれた状況に我慢がならず、抗議するために自ら死を選んだということだろうか。

 また、「サクラスターオーやマティリアルの後を追った」という切り口で彼の死を語る向きも少なくない。4歳戦線をトップクラスの戦績でにぎわしたゴールドシチーがただの馬になってしまった時期は、ちょうどサクラスターオーの死の時期と一致する。ダービーでの謎の後退も、その気で見れば最大のライバルのサクラスターオーの姿がないことを知って走る気をなくしたように見えなくもない。1頭のライバルを永遠に失ったことで闘志を失ってしまったゴールドシチーだが、自分がターフを去った後も戦場で戦いつづけたもう1頭のライバル・マティリアルも京王杯AH(Glll)で最後の勝利と引き換えに戦場に散ったことを知り、戦いに生きる宿命を背負ったサラブレッドでありながら、ライバルに死に遅れて死に際を失った己への悔恨の思いにとらわれてしまったのかもしれない。

 ―これらの説はさておくにしても、1987年の皐月賞2着馬が、皐月賞馬から2年、同3着馬からはわずか半年遅れで、早すぎる死を遂げたことだけは、まぎれもなき歴史上の事実である。享年7歳。(この章、了)

記:2000年2月14日 補訂:2000年11月30日 2訂:2003年3月26日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/

『南国に果つ』

 ゴールドシチーの乗馬生活の終わりは、突然やってきた。ゴールドシチーが宮崎競馬場にやってきて約半年が過ぎた平成2年5月1日、悲劇は起こった。

 その日のゴールドシチーは、いつもと同じように他の馬たちと一緒に放牧に出されていた。メーデーで休みを取った従業員が多かったことから人の目が行き届きにくかったことを除くと、何の変哲もなく1日が過ぎてゆくはずだった。

 しかし、隣接する社宅から馬たちを見ていた従業員の家族が洗濯物を干すためにベランダに出たその時、とても悲しそうな馬の声がしたという。あわててその人が牧場の方を見てみると、1頭の馬が右前脚を宙に浮かせて鳴いて―いな、泣いていた。連絡を受けた場長らがあわてて駆け寄ってみると、そこには3本脚でかろうじて立ちながら、大きな眼一杯に涙をためたゴールドシチーの姿があったという…。

 応急処置の後、翌5月2日に右前脚のレントゲンが撮影されたものの、右前上腕部の骨折により予後不良という診断が下された。その日のうちに、ゴールドシチー安楽死の措置がなされた。