『幾つもの悲運を経て』

 1988年(昭和63年)の勝ち馬ラッキーゲランは、現役時代は「ラッキー」というその名に反して多くの悲運につきまとわれた馬だった。当時、阪神3歳Sを勝って西の3歳王者に輝いた馬はいわば「関西の総大将」としてクラシックに乗り込んでいくのが宿命とされていた。しかし、翌平成元年の4歳クラシック三冠レースでは、出走馬の中に西の3歳王者の姿を見いだすことはできなかった。ラッキーゲラン阪神3歳S後に発症した脚部不安によって、ほぼ1年間を棒に振り、クラシックの舞台を踏むことさえもできなかったのである。

 ただ、クラシックで様々な悲運があったということは、これまでに紹介した阪神3歳S馬たちの中にも珍しくなかった。ラッキーゲランが彼らと違う点は、その試練を乗り越えて見事に復活を果たしたことである。彼は4歳時をほぼまるまる棒に振った脚部不安から立ち直り、復帰後も重賞2勝を含む5勝をあげた。

 ラッキーゲランの通算成績は42戦8勝、重賞3勝である。この数字は歴代阪神3歳S馬の中では出色のものであり、あるいはその実績に敬意を表して今回の列伝からはあえて省いたサッカーボーイ(通算11戦6勝、重賞4勝)と並べても、それほど見劣りしないはしないものといえるかもしれない。

 しかし、彼にはサッカーボーイと決定的に違う点があった。彼はなぜか、走っても走ってもその実力が評価されることはなかったのである。ラッキーゲランの戦績表をまじまじと眺めてみると、とんでもないことが分かる。彼は42回も走ったGl馬であるにもかかわらず、1番人気に支持されたのは1回だけであり、3番人気以上に支持されたことすら8回しかない。

 彼は穴馬、穴馬と言われてはいるが、たった1回だけ1番人気に支持された函館記念(Glll)では、人気にこたえて優勝している。また、3番人気以上に支持された8回のレースについても、そのうち5回は優勝している。彼は人気のときに走らなかったのではなく、人気のときはそれにこたえ、不人気のときにもたまに穴をあけるという、実に使い勝手のいい馬だったのである。

 しかし、人間たちは、勝っても勝っても彼を評価しなかった。馬券上の低評価ならば、まだ馬には関係がないかもしれない。だが、その低評価は引退に及んで彼を直撃した。彼はこれほどの実績を残しながらも彼は引退後種牡馬入りすることすらできず、乗馬とされてしまったのである。こうしてラッキーゲランの血を継ぐ若駒たちがターフに戦士として還ってくる希望は幻に終わり、彼の血は永遠に封印されてしまった。

 そんなラッキーゲランに最後に救いの手が差し伸べたのは、つま恋乗馬センターだった。同センターが彼を求めたのは種牡馬としてではなく、乗馬としてだった。今、彼はそこにいる。しかし、それは彼にとって不幸なことではなかった。同センターは現役時代に報われなかった彼が、幾つもの悲運を経ながらついに勝ち取った、安住の地なのである。