『忘れ去られし騎手』

 大西直宏騎手は、当時35歳で、もはや騎手としては中堅というよりもベテランといっていい年齢になりつつあった。彼もまた、かつてサニースワローの主戦騎手を務めた男である。・・・だが、当時の彼は、年齢の割にファンにはあまり名前を知られていない、マイナーな騎手の1人に過ぎなかった。

 当時の大西騎手は、20年近い騎手生活で、ようやくその年になって通算200勝を達成したばかりだった。200勝といえば、現在のトップジョッキーならば、1年ちょっとであげてしまう数字である。

 大西騎手が騎手としてデビューしたのは、1980年のことだった。中尾厩舎の所属騎手として騎手生活をスタートさせた大西騎手は、騎手養成過程の時から高い技術を注目されており、デビューした年の彼は、68戦しか騎乗しなかったものの、そんな少ない騎乗の中で、関東の同期の新人では最高となる9勝をあげ、関東の最優秀新人騎手に贈られる民放競馬記者クラブ賞を受賞した。その翌年には、中尾師が管理するゴールドスペンサーに騎乗し、天皇賞で3着、そして第1回ジャパンCでは、ホウヨウボーイモンテプリンスといった当時の最強馬たちがことごとく沈む中で日本馬最先着の5着に健闘し、さらに有馬記念でも5着に入っていた。81年の1年間で24勝をあげ、その後も毎年20前後の勝ち星をあげていた大西騎手の騎手生活は、順風満帆であるかのように見えた。

 しかし、騎手の世界は、騎乗技術だけで成功できる世界ではない。大西騎手のように、競馬サークル内に人脈を持たないまま飛び込んだ者にとっては、なおさら厳しい世界である。もともと口下手だった大西騎手は、いわゆる「営業」・・・他の厩舎に積極的に自分を売り込んで、騎乗依頼をもらうことが苦手だった。競馬関係者から

「大西は口が足りなさすぎる」

と言われた、おとなしく寡黙な性格も災いし、成績の割には、所属する中尾厩舎以外からの騎乗依頼がなかなか伸びなかった。そして、そのうち活躍の印象が薄れてくると、今度は勝ち鞍の方が減少し始めたのである。

 不振と言われた大西騎手だったが、87年にはサニースワローでダービーに進み、2着に入る大殊勲をあげている。しかし、有力厩舎とはいえない中尾厩舎の馬だけでは、どうしても勝ち星に限界がある。落馬事故で大けがをするという不運もあって、彼の低迷は長く続いた。思い切ってフリーになり、裏開催で地道に稼ぐことにしてからは、彼の勝ち鞍は再び年間ふた桁に乗るようになったものの、それと引き替えに、大舞台での出番もほとんどなくなっていた。大西騎手の重賞制覇は、デビュー3年目の1982年、ハイロータリーに騎乗して、その年限りで廃止された伝統のアラブ重賞・アラブ大賞典・秋で最後の勝利騎手となった、その一度きりだった。大西騎手自身、そろそろ自分の騎手としての将来に見切りをつけ、調教師試験の受験を家族に相談していた。

 しかし、大西騎手の不振の原因は、騎乗技術ではなく、乗り鞍に恵まれないことが原因だということにあった。中尾師も、この不運な弟子をなんとか大成させたいと日ごろから願っていた。そこで中尾師は、久々に自分の厩舎にやってきた「逸材」サニーブライアンの鞍上に、フリーになっていた大西騎手を配することに決めた。

 そんな師の思いやりによってサニーブライアンに騎乗することになった大西騎手だったが、初めてサニーブライアンに跨った時については、

「しっかりしたところをあまり感じさせない馬でした。ちょうど同じブライアンズタイム産駒がもう1頭いたんですよね。もしどちらかを選べと言われてたら、そっちの方を選んじゃったと思いますよ」

という。だが、そんなことを言いながらも、大西騎手はいつもサニーブライアンに自分で調教をつけ、少しずつ競馬を教えていった。