『プレクラスニー』

 「日本の馬産界には血統の多様性が根付きにくい」という点は、日本の馬産界の構造的な欠点として、古くから指摘され続けてきた。

 競走馬の血統にも栄枯盛衰がある以上、ある時代に特定の系統が流行するということはある。新たに流行する系統があれば、廃れる系統があるのもまた道理である。ただ、日本の馬産界の場合は、ある系統が流行し始めると、後先を考えずその系統の種牡馬ばかりを大量に輸入するものだから、その血統が本場から根こそぎいなくなってしまうことも少なくなかった。しかも、日本ではそうして輸入した系統でさえ、流行が過ぎるとともに忘れ去り、せいぜい2代ほどでほとんど滅亡させてしまうことがほとんどだったから、海外から「種牡馬の墓場」として批判されてきたというのも、ある程度はやむを得ないことだろう。

 もっとも、そうして輸入された血統の中には、日本競馬界に古くからかなりの順応性を示してきた系統がいくつかある。Gray Sovereignの血を引く系統は、その代表格ということができよう。古くはアローエクスプレスフォルティノらによって成功がもたらされたこの系統は、シービークロスからタマモクロスと続く系統などを生み出しており、近年では、凱旋門賞トニービンが大きな成功を収めている。

 現在この系統で最も繁栄しているのはトニービンの後継種牡馬たちのようだが、長年の歴史とともに日本の馬場への適性が証明されてきたGray Sovereign系の血統は、おそらく今後も日本の競馬界に影響を与え続けていくと思われる。

 しかし、現在もGray Sovereign系が繁栄しているその一方で、1998年春に、1頭のGray Sovereign系の内国産天皇賞馬が、活躍馬を残すこともなく、否、その機会すらほとんど与えられないままに寂しくこの世を去ったことは、あまり知られていない。その天皇賞馬とは、1991年の天皇賞・秋(Gl)を制したプレクラスニーである。

 プレクラスニーは、古馬の最高峰とされるレースを制しながらも、その生涯を通じてそれにふさわしい評価をほとんど得ることができなかった不遇の天皇賞馬である。彼がそんな評価しか受けることができなかったことの背景には、恵まれることのなかった彼の競走生活が、様々な形で反映している。

 競馬界の歴史とは、あらゆる人々の賞賛と尊敬を受ける少数の名馬だけでなく、正当な評価を受けることなく埋没していく多数の存在によって築かれるものである。そして、後者にはプレクラスニーのようなGl馬が含まれることも、まれではない。今後のサラブレッド列伝では、そうした馬たちも含めて様々なサラブレッドの生涯を叙述していく予定だが、その第1回として、まずは古馬最高の名誉を手にしながら不遇の短い生涯を終えたプレクラスニーの生涯を追ってみたい。