『果たされぬ使命』

 現役を引退し、7歳春から種牡馬入りしたプレクラスニーには、天皇賞馬としてその血を後世に伝えるという第二の使命が与えられていた・・・はずだった。古馬の最高峰・第104回天皇賞を制したのは、まぎれもなくプレクラスニーだったのだから。しかし、世間はそう見てくれなかった。プレクラスニーにとって最大の栄光であるはずの天皇賞は、常に「メジロマックイーン降着」という形容詞のみによって語られ、決して「プレクラスニーが勝った」という形容詞で語られることはなかった。そして、降着、繰り上がり優勝という強烈な残像は、プレクラスニーの粘り強い逃げは勿論のこと、前走までのレコードと僅差の連勝すら、吹き飛ばすには充分すぎるものだった。

 プレクラスニーの生涯戦績を見ると、東京芝コースでは5戦5勝であり、また芝1800m戦は7戦6勝2着1回という数字が残っている。彼が芝で連を外したのは、有馬記念を含めてもたったの2回だけである。だが、彼の真の実力を示すこれらの数字は、何の意味も持たなかった。常に最強馬を追い求める時代の流れの中で、「最強馬ならざる勝者」であるプレクラスニーの存在は、黙殺されることになった。

 プレクラスニーの初年度産駒(1994年生)は、わずかに10頭だった。内国産天皇賞馬としては、あまりに悲惨過ぎる数字である。しかしその翌年には、その数字ですら彼にとっては幸せなものだったということが明らかになった。翌95年生の産駒数はさらに落ち込んでわずかに4頭となり、96年生の1頭を最後に、ついにプレクラスニーの産駒自体が1頭もいなくなった。

 初年度産駒の中で中央デビューを果たした数少ない1頭であるストレラー(牡)は、江田騎手とのコンビで3戦目に勝ち上がり、府中3歳S(Glll)ではゴッドスピードの4着と健闘した。この馬はその後アクシデントに見舞われるなどの不運にもめげることなくその後2勝目を挙げるに至った。・・・だが、そんな彼も、平地17戦2勝、障害3戦未勝利の戦績を残し、レース中の事故で世を去った。96年生まれでプレクラスニー最後の産駒となったストレラーの全妹タンドレスも、17戦1勝の戦績を残したものの、繁殖入りすることなく乗馬となった。プレクラスニー産駒が中央競馬で挙げた勝ち鞍は、この2頭によるものだけである。

 一方、第104回天皇賞で敗者とされたメジロマックイーンは、勝者とされた者とはまったく違う経路を辿っていった。ターフからプレクラスニーの姿が消えた後も、メジロマックイーンは最強馬として競馬界に君臨しつづけた。トウカイテイオーライスシャワーといった数々の名馬たちと死闘を繰り広げ、回転の速いサラブレッドの世界で約3年に渡り王者の地位に君臨したのである。天皇賞・春連覇をはじめGlを4勝し、天皇賞父子3代制覇を成し遂げた偉業を称えられ、顕彰馬にもなった。産駒は初年度から80頭以上を確保し、その中からは重賞勝ち馬も輩出している。メジロマックイーンを語る場合、第104回天皇賞は常に伝説として語られる。―勝者の悲哀と対照的な、敗者の栄光として。