『早すぎた限界』

 ゴールドシチーは、菊花賞の後も鳴尾記念(Gll)へと出走した。ここでは1番人気に支持されたゴールドシチーだったが、菊花賞の疲れが残っていたのか、それとも56.5キロのトップハンデが響いたのか、人気を裏切って6着に沈んでしまった。ファン投票では、有馬記念にも出走可能なところに位置していたゴールドシチーだったが、鳴尾記念の敗北を受け、有馬記念は回避してそのまま休養に入ることになった。敗因を馬の疲労とみた清水師は、来年に向けての立て直しを図ったのである。

 ゴールドシチーの4歳時は、皐月賞2着、ダービー4着、菊花賞2着と三冠レースすべてで健闘というに足る成績を残しながら、ついに未勝利のまま終わった。ちなみに、ゴールドシチーが回避した有馬記念では、皐月賞菊花賞と2度にわたって彼のクラシック戴冠の悲願に立ちはだかり、そして阻んだライバルの1頭であるサクラスターオーが、レース中の事故で競走生命、そして彼自身の生命をも失っている。

 古馬となり、ゴールドシチーが競馬場へと帰ってきた時、彼らの世代の最強馬は既にターフを去っていた。寂寥感を否定できない彼らの世代の中で、ゴールドシチーには4歳時に勝る活躍が期待されていた。

 だが、ゴールドシチーへの期待は、むなしいものに終わった。4歳時に比べるとインパクトの薄い成績しか残せなかった彼は、器の限界を露呈したのである。

 ゴールドシチーの5歳以降の戦績は、9戦未勝利に終わった。同じ未勝利といっても皐月賞菊花賞2着を含んでいた4歳時に比べると、5歳時の京都大賞典(Gll)と6歳時の産経大阪杯(Gll)で3着したのが最高着順、Glでは掲示板が5歳時の天皇賞・春(Gl)5着の1度きり、という内容が薄く感じられるのも、やむを得ないだろう。5歳以降のゴールドシチーの急激な衰えは、単なる早熟ゆえの体力的なものだったのか、それともライバルのサクラスターオーを失ったことからくる、気力の減退ゆえだったのか。

 かつての主戦騎手だった本田騎手の鞍上への復帰も、復活のきっかけとはならないまま、ついにゴールドシチーは、6歳時の宝塚記念(Gl)10着を最後に現役を引退することになった。通算成績は20戦3勝、結局阪神3歳Sは、ゴールドシチーの最後の勝ち星となった。