『西の地に没す』

 4歳以降のカツラギハイデンを見てみると、まるでダイゴトツゲキがたどった馬生をそのまま後追いしたかのように苦難の道を歩んでいる。そんな彼には、やはりダイゴトツゲキと同じ屈辱が待っていた。本賞金が2300万円だったカツラギハイデンも、5歳夏の降級により、Gl馬にして準オープン馬という悲哀をなめることになったのである。競馬四季報では、本拠地が異なる馬は、オープン馬しか紹介されない。こうして当時の競馬四季報関東版からは、カツラギハイデンの名前が消えた。

 しかし、カツラギハイデンにはダイゴトツゲキと違った点がひとつあった。彼は、そんな状態になってなお、戦場へと復帰したのである。

 カツラギハイデンの休養は、NHK杯の後、約1年間の長きにわたった。彼が復帰を果たしたのは、翌年の真夏のローカル開催、北九州記念(Glll)だった。この時はもう降級になっているはずだから、その気になりさえすればカツラギハイデンは、準オープン戦に出ることもできたはずである。それでも「格上挑戦」で重賞を復帰戦に選んだのは、陣営のGl馬としてのせめてもの意地だったのかもしれない。

 もっとも、真夏のローカル開催では、一流どころの馬は夏休みに入ってレースに出走しないから、重賞とはいっても相手関係はたかが知れている。当時の北九州記念は、賞金額にもとづく別定戦であり、カツラギハイデンの斤量は56kgどまりだった。1頭だけのGl馬という実績、斤量の有利さ、そんな中ではカツラギハイデンは、とてつもない人気を背負わされても不思議はない、いや、背負わなければならない存在だった。

 だが、ファンは冷酷な目で、目の前の現実だけを見つめていた。中央開催の重賞では歯が立たない下級オープン馬、あるいは条件馬もどきがほとんどを占める中で、カツラギハイデンは11頭立ての8番人気にすぎなかった。小倉ということは、馬券を買うファンはほとんど関西のファンのはずだが、既にカツラギハイデンは、本拠地関西のファンからすら忘れ去られた存在となっていた。

 そして、カツラギハイデンに、そんな評価をはね返すだけの力は残っていなかった。先行しながらも直線では見せ場なく8着に敗れ、人気どおりの結果に収まってしまったのである。その結果は、彼に対する厳しい評価が、いまや正当なものとなり果ててしまったことを証明するものだった。夏の小倉競馬場をさびしく引き揚げていくカツラギハイデンの後ろ姿は、かつて世代の頂点に立ったGl馬のそれではなく、落日の悲運にあえぐ準オープン馬のそれに過ぎなかった。