『若き日の挫折』

 スズカコバンが入厩することになったのは、栗東小林稔厩舎だった。小林師は1999年に調教師を引退したが、その時までに通算899勝という実績を残した。1996年には、フサイチコンコルド日本ダービーを勝っている。

 ただ、「西高東低」が当然のようになっている現在とは対照的に、当時の競馬界は「東高西低」が常識だった。大レースを勝つのはことごとく関東馬だったため関西の調教師の成績が上がらず、馬主に信用してもらえないことから、気に入った馬を買ってもらうにも苦労する有様だった。そんな中で、小林師が当歳時から見込んだ逸材だったスズカコバンには、同期の馬たちの中でも特に期待していたという。

 デビュー当初は牧場での怪我の影響が残っていたのか、それとも馬が未完成だったのか、スズカコバンの成績はいまひとつぱっとしないものだった。スズカコバンは11月の終わりに、中京に遠征してのデビュー戦を迎えたが、1番人気を見事に裏切って11着に敗れた。連闘で臨んだ折り返しの新馬戦で勝ち上がったものの、続く400万下さざんか賞では5着に敗れた。・・・スズカコバンの3歳時の戦績は、3戦1勝着外2回というものだった。

 4歳になってからのスズカコバンは、関西の裏路線を歩んだ。短距離を中心に使われた3歳時とは違って2000m以上のレースを中心に使われ、早い時期に2勝目、3勝目を挙げたスズカコバンは、その後日本ダービーを見据えて東上することになった。関西馬スズカコバンにとって、それは関東への初お目見えだった。

 ・・・しかし、その結果は惨憺たるものだった。叩き台代わりに使ったオープン戦では6頭だての5着、本番の日本ダービーも、10着・・・。力不足は否めない結果である。スズカコバンが敗れた日本ダービーで、あのミスターシービーが二冠を達成している。この時点でのスズカコバンは、ターフを駆ける天馬二世の煌めきの敵ではなかった。