『悲運を乗り越えて』

 ところが、スズカコバンはその欠点ゆえに大きな危機を迎えることになってしまった。当歳の秋に野性の命じるままに遊んでいたスズカコバンは、勢い余って電柱を支える鋼線にぶつかった際、胸前に深い傷を負ってしまったのである。

 この時の傷は、筋肉の断裂を伴う重症だった。稲原氏はスズカコバンをなんとか競走馬として再起させたいと願って2度にわたる手術を行ったものの、獣医からは

「もう競走馬になれるかどうか分からない」

と宣告されてしまった。

 スズカコバンが競走能力喪失、という診断を受けたため、稲原氏は泣く泣く永井氏に連絡を入れた。稲原牧場のようなマーケットブリーダーにとって、馬主との信頼関係は牧場の生命線である。いくら素質馬だったとはいえ、こんな大怪我をした馬を売ったのでは、馬主にみすみす損をさせて後々の信頼関係にひびを入れることになる。信頼関係を大切にしなければ、牧場の商売は成り立たない。稲原氏も、永井氏にスズカコバンが競走馬になれるかどうか分からない程の大怪我をしたことを伝えた際には、そのことを理由にキャンセルされてもやむなし、と考えていた。

 ところが、永井氏からの答えは、稲原氏の予想とは正反対のものだった。

「自分が欲しくて買ったのだから、そのまま貰っていきます」

・・・この答えには、稲原氏の方が驚いてしまったという。結局、スズカコバンはそのままスズカ軍団の一員として、永井オーナーの勝負服とともに中央競馬でデビューすることになった。