『素晴らしき牝系』

 スズカコバンは、北海道の平取・稲原牧場で生まれた。稲原牧場といえば、近年ではサイレンススズカの生まれ故郷として有名になったものの、当時はそれほど有名な牧場ではなかった。・・・というより、スズカコバンは平取で生まれた初めてのGl馬である。

 稲原牧場の当主である稲原一美氏は、昭和30年頃にサラブレッド生産を始め、その後一貫して信念に基づく牧場経営を続け、着実に実績を残していた。稲原氏の馬産の基本線は、血統の絶えざる改良を図るため、積極的に新しい繁殖牝馬を入れて血の入れ替えを図るとともに、そうして選り抜かれた牝馬には、自分の目で見て「これは」と気に入った一流種牡馬だけを交配するというものだった。

 ・・・口で言うだけならば、この方法は非常に簡単に思われる。逆に、これと違った方法論・・・「繁殖牝馬の入れ替えをせず、牝馬にも二流三流の種牡馬をつけていく」というやり方を公言する馬産家は、おそらく皆無だろう。

 しかし、稲原氏の成功の要因は、この理想を徹底して実践してきたことにある。何事も口で言うのはたやすいが、実行するのは難しい。この方法もまた然りで、繁殖牝馬の入れ替え・・・といっても、どの馬が繁殖牝馬として優れた資質を持っているかどうかは、事前には分かりはしない。古い優れた馬を出して新しい劣った馬を入れたのでは、牧場は衰退するばかりである。また、いい馬を導入しようと思えば相応の費用がかかるし、「いい馬」と思って導入した繁殖牝馬も、数年経って結果が出せなかったとしたら、血の入れ替えのために売ろうとしても、その価格は大幅に下がってしまう。

 さらに、多くのリスクを承知の上で繁殖牝馬の入れ替えを断行し、それが成功したとしても、その成果はすぐに表れるわけではない。10年後、20年後の表れるかどうかも分からない成果を夢見て、今ある金を投資し続ける・・・それが牧場経営というものである。

 しかし、稲原牧場は危険と背中合わせのこのやり方を貫いてきた。繁殖牝馬の数が増えてくると種付け料もそれだけ増え、馬の1頭1頭の細部にも目が届かなくなってしまうことに気づいた稲原氏は、繁殖牝馬の数を15頭程度に抑え、その分経費と手間を残した繁殖牝馬に集中する方法をとった。そうした方針のもとで生まれてくる稲原牧場の生産馬は、今も昔も筋の通った血統の馬ばかりである。

 スズカコバンの母・サリュウコバンは、全兄には、天皇賞リキエイカンがいる良血馬であり、もともとは稲原牧場とは旧知の間柄である浦河の鮫川牧場で生まれた。鮫川牧場では、古くは小岩井農場が明治期に輸入したフローリスカップまで遡るサリュウコバンの牝系を長年にわたって育ててきた。稲原氏は、以前からこの牝系を高く評価しており、鮫川牧場に

牝馬が生まれたらぜひ1頭譲ってほしい」

と申し入れており、それを受けて鮫川牧場は、1974年の春にサリュウコバンが生まれると、稲原牧場に譲ってもいいという連絡を入れた。

 稲原氏は大喜びでこの牝馬を買いつけ、サリュウコバンと名付けて競走馬としてデビューさせた。・・・だが、サリュウコバンは気性が激しすぎたため、競走馬としては大成できなかった。5戦未勝利、入着すらないまま現役を終えたサリュウコバンの競走成績は、天皇賞馬の全妹という血統に照らし、到底満足のいくものではなかっただろう。

 競走馬としては不完全燃焼に終わったサリュウコバンは、繁殖牝馬として巻き返しを図ることになった。初年度は不受胎に終わり、2年目にマルゼンスキーと交配して生まれた初仔が、後のスズカコバンである。