『夢よ、もう一度』

 安田記念でフレッシュボイスの後塵を拝したニッポーテイオーは、次走の宝塚記念(Gl)でフレッシュボイスに先着したものの、スズパレードの2着に破れたため、Gl3連続2着という珍記録を作る羽目になってしまった。・・・だが、ニッポーテイオーの雌伏の時は、ここまでだった。秋には天皇賞・秋(Gl)で悲願のGl制覇を果たしたニッポーテイオーは、続いてマイルCS(Gl)も制覇した。6歳となった翌年には安田記念(Gl)を制して前年の雪辱を果たし、宝塚記念では天皇賞・春を勝ったタマモクロスとの一騎打ちに敗れて2着に終わると、そのレースを最後に栄光に包まれて引退していった。中央競馬の華というべき2400m以上のレースには出走しなかったために印象は薄いが、マイルから中距離において確かに「ニッポーテイオーの時代」というものが存在していた。

 では、その間フレッシュボイスは何をしていたのか、というと、ライバルの栄光と退場を目の当たりにしながら、彼もまた自分自身の戦いを遂行し続けていた。・・・だが、その年の秋から翌年の春にかけて絶頂期を迎えたニッポーテイオーとは異なり、フレッシュボイスの絶頂期は、安田記念の時だったのかもしれない。その後のフレッシュボイスは、宿敵ニッポーテイオーと戦うこと4回、ついに一度も先着することはできなかった。

 不器用なまでに追い込み一手のレースを続けたフレッシュボイスの競馬は、安田記念の後もまったく変わることはなかった。6歳時には、武豊騎手とのコンビで産経大阪杯(Gll)を勝ってみせた。だが、成績が安定しないのは極端な脚質の悲しさである。いつも最後にはそれなりに追い込んで、

「あとひとハロンあれば・・・」

と多くのファンにため息をつかせた。しかし、だからといって違う競馬をできるような馬でもないし、むしろ後方からいかなければ、フレッシュボイスの良さは生きてこない。そんなもどかしさこそが、フレッシュボイスのフレッシュボイスたるゆえんでもあった。

 ニッポーテイオーが去った後も競争生活を続けたフレッシュボイスだったが、そんな彼も、年齢による衰えを避けることはできなかった。直線での末脚は少しずつ、しかし確実に衰え、それに対応して彼の着順も、時の経過とともに下がりがちになっていった。

 フレッシュボイスが7歳にして宝塚記念に出走した時は、誰もが彼のことを見限りかけていた。この時の鞍上は、クラシックを共に戦った田原騎手でも、安田記念の美酒を分かち合った柴田騎手でも、また大阪杯でコンビを組んだ武騎手でもなく、関西の若手・松永幹夫騎手だった。16頭だての10番人気にとどまったフレッシュボイスは、前年の有馬記念(Gl)以来の実戦という不安材料があったとはいえ、「終わった馬」とみられていた。

 フレッシュボイスが競走生活の中で最後の見せ場を作ったのは、この日のことだった。天皇賞・春(Gl)を勝ったイナリワンが馬群から抜け出すと、フレッシュボイスも後方から負けじと追い上げ、久しぶりに見る豪脚を繰り出すと、わずかにクビ差まで肉薄したのである。結果は惜しくも2着にとどまったが、「フレッシュボイス、老いてなお健在」をアピールするには十分なレースだった。

 ・・・そして、それがフレッシュボイスの最後の輝きとなった。その後も現役を続行したフレッシュボイスだったが、秋は3戦に出走したものの、1度も掲示板に載ることさえできず、有馬記念7着を最後についに現役を引退することになった。彼が残した戦績は26戦7勝、安田記念をはじめ重賞を5勝し、さらに皐月賞宝塚記念で2着に入ったというものであり、一流馬として十分誇るに値するものである。