『中央と地方の狭間で』

 近年の傾向として、中央競馬地方競馬の交流は著しく進むようになった。97年に導入された統一グレード制により、中央馬の地方遠征もいまや珍しいものではなくなった。さらに、地方馬が地方在籍のまま、中央の統一グレードレースはもちろんのこと、クラシックや天皇賞といった最高峰のレースにも出走できるチャンスが与えられるようになっている。馬に比べて遅れていた人の交流も、2003年に笠松のトップジョッキーから中央競馬への転身を果たした「アンカツ」こと安藤勝己に象徴されるとおり、少しずつではあるが、改革が進んでいる。

 そんな背景の中で、「マル地」の存在意義も、かつてとは違ったものとなっている。かつては「中央の二軍」としてしか扱われなかった地方競馬だが、いまや中央競馬への転入を見越し、馬房の回転の手段として地方へ入厩させる例もあるという。それは極端な話としても、今の「マル地」には、かつてのような悲壮感はもはやない。中央競馬地方競馬の分立が続く限り、「マル地」が消えることはないだろう。しかし、かつては中央と地方のほぼ唯一の交流の窓口となっていた「マル地」だが、今後果たすべき役割は、これまでとはまったく違ったものへと変わっていくに違いない。

 「マル地」の特殊性、「伝説」が過去のものとなっていく時代の中でも、ホスピタリティ、ドクタースパートらが果たしてきた役割は、決して過小評価されるべきではない。その点、父のホスピタリティは、種牡馬としても多くの重賞馬を輩出して成功を収めている。だが、息子のドクタースパートを待っていたのは、厳しい運命の荒波だった。一時の内国産種牡馬全盛の時代が去り、欧米の超一流馬が続々と輸入される時期に種牡馬入りしたドクタースパートは、ろくに種付けもさせてもらえない状況に甘んじることとなった。初年度産駒が5頭、翌年が10頭という数字では、浮上のきっかけをつかむことさえ難しい。彼の産駒を中央競馬で見かけることはほとんどないし、今後見かける可能性も低いだろう。

 ドクタースパートを実績的に大きく上回るオグリキャップら平成三強ですら種牡馬としては大苦戦する中で、ドクタースパートの戦いが苦しいものとなることは、避けられない宿命だったのかもしれない。まして、故障のためとはいえ、伝説のまま引退することができた父と違って、息子は伝説となることが許されなかった。4歳秋からの不振もさることながら、この時代のスポットライトは、すべてオグリキャップのためにあった。オグリキャップという強烈な光の前では、同じマル地のドクタースパートの物語性は、あまりにも脆かった。ひとつの時代にふたつの伝説を持つには、競馬界はあまりにも狭すぎたのである。そして今また、「マル地」の伝説そのものが、過去のものとして遠ざかりつつある。これもまた、否定できない時代の流れである。

 ダート1200mの3歳戦と芝3600mの古馬レースでレコードを叩き出したドクタースパートに、潜在的な能力がないはずはない。しかし現実には、父ホスピタリティ、母の父タケシバオー、そして母系はハイセイコーの一族という奥深い血統を持つ彼の血は、伝説となることができないまま、ひっそりと消えてゆく可能性が高い。数少ない彼の産駒に、ホスピタリティからドクタースパートへと続いたマル地の歴史を継承し、中央と地方の壁を打ち破ることを期待することは、もうかなわぬ夢なのだろうか―。[完]

記:1998年9月28日 補訂:1999年1月18日 訂:2000年6月22日 2訂:2001年8月11日 3訂:2003年4月08日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/