『血統の深遠』

 荻野師の計らいで宮村牧場へ戻されたツルミスターは、やはり荻野師の助言によって、ヤマニンスキーと交配されることになった。

 ヤマニンスキーは、父に最後の英国三冠馬Nijinsky、母にアンメンショナブルを持つ持ち込み馬である。母の父Backpasser、母の母の父Princeqiroといえば、やはりNijinsky産駒で日本競馬のひとつの伝説を築いたマルゼンスキーと全くの同配合となる。もっとも、ヤマニンスキーマルゼンスキーより1歳下であり、彼が生まれた時は、マルゼンスキーもまだデビューすらしていない。

 やがてデビューを果たしたヤマニンスキーだったが、マルゼンスキーと血統構成は同じでも、競走成績は比べるべくもなかった。8戦8勝、朝日杯3歳Sなどを勝ち、さらに8戦で2着馬につけた着差の合計が60馬身という圧倒的な強さを見せつけたマルゼンスキーと違って、ヤマニンスキーの通算成績は22戦5勝にとどまり、ついに重賞を勝つどころか最後まで条件戦を卒業できなかった。ヤマニンスキーの戦績で競馬史に残るといえば、地方競馬騎手招待競走に出走した際に、当時20歳だった安藤勝己騎手を乗せて優勝し、「アンカツ」の中央初勝利時騎乗馬として名を残していることくらいである。そんなヤマニンスキーは、競走馬としては明らかに「二流以下」の領域に属していた。

 しかし、名競走馬が必ずしも名種牡馬になるとは限らず、逆に競走馬としてはさっぱりだった馬が種牡馬として大成功してしまうことがあるのも、競馬の深遠さである。競走成績には目をつぶり、血統だけを売りとして種牡馬入りしたヤマニンスキーだったが、これがなぜか大当たりだった。

 ヤマニンスキーより先に種牡馬入りしていたマルゼンスキーは、一流の血統と競走成績を併せ持つ種牡馬として、早くから人気を博していた。人気を博せば、種付け料も上がる。値段が上がるにつれて「マルゼンスキーをつけたいが、種付け料が高すぎて手が出ない」という中小の生産者たちが増えてくるのも当然の流れだった。

 ヤマニンスキーの血は、「マルゼンスキーの代用品」としてではあったにしても、日高の中小規模の馬産家を中心に重宝され、予想以上の数の繁殖牝馬が集まってきた。「代用品」としての価値は、マルゼンスキー産駒の活躍によって上昇し、その後ヤマニンスキーも予想以上に走ったことで、さらに高まっていった。ヤマニンスキーの代表産駒としては、ヤエノムテキ以外にも、オークスライトカラーをはじめ、愛知杯を勝ったヤマニンシアトル、カブトヤマ記念を勝ったアイオーユーなど多くの重賞勝ち馬が挙げられる。こうして毎年サイヤーランキングの上位の常連にその名を連ねるようになったヤマニンスキーは、1998年、1年前に死んだばかりのマルゼンスキーと同い年で、大往生を遂げた。しかし、ヤマニンスキー種牡馬入りするときに、彼がこのように堂々たる種牡馬成績を残すことなど誰も想像していなかったことからすれば、彼は彼なりに、素晴らしい馬生を送ったということができるだろう。

 こうして生まれたのが、後の皐月賞馬にして天皇賞馬となるヤエノムテキである。ツルミスターを宮村牧場へと送り届け、さらにヤマニンスキーと配合するという、客観的に見れば海のものとも山のものとも知れない助言から見事にGl2勝馬を作り出してした形の荻野師だが、後になってツルミスターの配合相手にヤマニンスキーを勧めた理由を訊かれた際には、

「忘れた」

と答えている。なんとも人を喰った話である。