『勝手に引退式』

 ところが、ヤエノムテキは、最後の最後になって、勝手に1頭だけの引退式を始めてしまった。突然暴れ出した彼は、岡部騎手を振り落として1頭だけでコースを独走しはじめたのである。

 場内は、当然のことながら大騒ぎになった。この日のヤエノムテキ単勝6番人気に支持され、いちおうの穴人気となっている。そんな馬が、レースで騎手を乗せて走るのではなく、レース前に騎手も乗せずに気持ちよく走り始めたのだから、注目を集めないはずがない。この瞬間、スタンドの観衆、そしてテレビの視聴者の目は、すべてヤエノムテキに注がれた。

 ヤエノムテキは、やがて追いかけてきた係員に捕まり、馬体再検査の上、「馬体に異常なし」ということで、レースには出走することになった。しかし、萩野調教師は、捕獲されて連行されてきたヤエノムテキの顔を見て、すぐに勝負を諦めたという。

「こいつ、もうひと仕事終えましたって顔をしとる」

というのが、その理由である。こうしてヤエノムテキは、人間の都合などには全く構うことなく、自分だけの引退式を自分だけでやり遂げてしまった。