『我が恋う女は・・・』

 さて、5歳春になってからも日経新春杯(Gll)で2着、産経大阪杯(Gll)で優勝するなど、安定した戦績を見せたヤエノムテキだったが、その後宝塚記念(Gl)で7着に敗れてからは、いまひとつ戦績が振るわなくなってしまった。

 距離適性から天皇賞・春を回避してまで中距離適性にかけた宝塚記念で、単勝250円の1番人気を裏切った形のヤエノムテキは、馬の疲れをとるために、馬の温泉でリフレッシュを図ることになった。だが、その時にリフレッシュしすぎた彼は、馬体がすっかり緩んでしまい、秋の立て直しも思うに任せなかった。天皇賞・秋(Gl)4着、有馬記念(Gl)6着・・・これらは、ヤエノムテキ陣営にとって満足のいくものではなかった。

 当時、競馬界はオグリキャップイナリワンスーパークリークといった「平成三強」の時代へと突入していた。あまりにもライバルに恵まれ過ぎたヤエノムテキは、かつて皐月賞を制し、菊花賞で1番人気に支持されたころとは一転し、いつの間にか「好走はするが、なかなか勝てない善戦マン」という位置づけに変わってしまった。当初5歳いっぱいで現役を退く予定だったヤエノムテキは、そんな評価をもう一度振り払うべく、予定を変更してもう1年現役を続けることになった。

 もっとも、そのころには、ヤエノムテキは、「一流馬」としてではなく「個性派」として、少々ヘンな人気を集めるようになっていた。ヤエノムテキの有名名なエピソードとして、「シヨノロマン片思い伝説」が知られている。ヤエノムテキが調教に出かけたり、厩舎に帰ったりする際に、桜花賞エリザベス女王杯で2着に入った同い年の牝馬シヨノロマンが近くを通ると、彼はいつも立ち止まり、彼女の方ばかりをじっと見ていたという。担当厩務員の証言によって競馬界に広められたこの伝説は、彼自身のやんちゃな性格と相まってあちこちで面白半分に語られ、彼のヘンな人気を高める結果となった。・・・もっとも、「恋するヤエノムテキ」に対してシヨノロマンの態度は実につれなく、やがて5歳いっぱいで引退して北の地に帰ってしまったのだが、そんなオチもまた、話の面白さを増幅した。いつしかヤエノムテキには、「平成三強時代」の三枚目としての役割が定着していった。