『名手の選択』

 長い不振に苦しんだヤエノムテキは、6歳春になると、ようやく復調の気配を見せ始めた。この春はオグリキャップスーパークリークイナリワンという平成三強が揃い踏みした最後の季節となったが、ヤエノムテキはそんな中でも中距離戦線の王道を歩み、安田記念(Gl)2着、宝塚記念(Gl)3着をはじめ、重賞ばかり5戦して2着2回3着3回という数字を残した。オグリキャップスーパークリークを相手にしても、いつも相手なりに頑張ってそこそこの成績を残すヤエノムテキは、やはり相当の実力馬だった。・・・しかし、彼の成績は、あくまでも「そこそこ」でしかない。ヤエノムテキをなんとか勝たせたい荻野師は、安田記念を機に、主戦騎手を西浦騎手から岡部幸雄騎手への交替を断行した。・・・それでも、勝てない。

 90年春当時の競馬雑誌には、「三強」という記述のみならず「四強」という記述が散見される。しかし、ここでの「4頭目」とは、ヤエノムテキではなくメジロアルダンのことを指していた。Gl未勝利で故障による療養中のメジロアルダンと、皐月賞を勝ち、その後もGl戦線でそこそこの好走を続けるヤエノムテキであっても、競馬界の目はヤエノムテキを低く、メジロアルダンを高く評価していた。また、宝塚記念の後は、新世代の旗手としてオサイチジョージの評価が急上昇していた。ヤエノムテキは、なんとなく競馬界から置き去りにされたような扱いを受けていた。・・・ただ、そんな彼に熱い視線を送る1人の男がいることを、どれだけの人が認識していただろう。

 宝塚記念の後、ヤエノムテキ陣営は、馬の温泉での調整に失敗した5歳時の失敗への反省を生かし、夏も馬体を緩めない調整に専念した。そのかいあって、ヤエノムテキはトライアルの毎日王冠(Gll)こそ使えなかったものの、本番ではすっかり仕上がっていた。

「これで負けたら仕方がない」

荻野師は、そう胸を張った。そして、彼の自信を後押しするように、1人の男がヤエノムテキを選んだ。それは、ヤエノムテキ安田記念以降の主戦騎手であると同時に、このレースから復帰するメジロアルダンの主戦騎手でもあった岡部騎手だった。

 安田記念以降、西浦騎手に代わってヤエノムテキの手綱をとってきた岡部騎手だが、天皇賞・秋(Gl)では、メジロアルダンをはじめとする彼のお手馬が、何頭かエントリーしてきていた。メジロアルダンと岡部騎手のコンビは、88年日本ダービー2着、89年天皇賞・秋3着という一流の実績を残している。天皇賞・秋でも、一般的には

「岡部はメジロアルダンに乗るだろう」

という声が強く、岡部騎手にはメジロアルダン陣営からの騎乗依頼も舞い込んでいた。

 しかし、岡部騎手はメジロアルダンではなく、ヤエノムテキを選んだ。騎乗依頼が重なった時に騎手が馬を選ぶ最大の基準は、「勝つ確率はどちらがより高いか」である。調教師や馬主との関係、あるいは馬の将来性によって変わることもあるが、調教師、馬主が有力なのはヤエノムテキではなくメジロアルダンであり、また馬の年齢も、同じ6歳である。岡部騎手の選択は、当代一の名手がメジロアルダンよりヤエノムテキの方が勝つ確率が高い、と認めたことを意味しており、そのことへの喜びと自信も、大一番を前にした荻野師らに大きな力を与えていた。

『再びの府中で』

 ヤエノムテキは、皐月賞を制した思い出の府中2000mコースへと帰ってきた。長らく「平成三強時代」の中にあった競馬界だが、この時期は再び激動期を迎えつつあった。平成三強のうちスーパークリークイナリワン脚部不安を発症し、この日府中に姿を見せたのはオグリキャップ1頭だけである。しかし、そのオグリキャップも調教での動きなどから衰えの陰が指摘されていた。1番人気はオグリキャップだったが、2番人気に支持されたのは、宝塚記念オグリキャップイナリワンを破ったオサイチジョージであり、気配絶好が伝えられたヤエノムテキは、3番人気だった。

 皐月賞では最内の1番を引いたヤエノムテキだが、今度の枠順は18頭だての7番である。しかし、不利というほど外でもない。ヤエノムテキは、外枠の馬たちが殺到する第2コーナーでも、内側の位置どりをキープしながら中団につけた。ヤエノムテキと岡部騎手が見ていたのは、先行した圧倒的1番人気馬オグリキャップだった。ヤエノムテキは、同世代であり「平成三強」の筆頭格として競馬界のみならず一般社会にも「オグリ・ブーム」を巻き起こしたオグリキャップと5度戦い、一度も先着していない。春も安田記念宝塚記念の2度挑んだものの、安田記念はレコードでの圧勝を許し、宝塚記念でも2着に敗れたオグリキャップをとらえ切れなかった。

 しかし、時代は次なる世代へと動き始め、オグリキャップにも昔日の実力はない。無論、オグリキャップと同じ世代に属するヤエノムテキにも残された時間はもう長くはない。「最強世代」と呼ばれる同期生たちの中で脇役とされ続けた彼が主役と呼ばれるために、オグリキャップを倒すことは不可欠であり、そして天皇賞・秋(Gl)こそは、彼にとっての最大の好機だった。