『受け継いだもの』

 仔分けの繁殖牝馬の配合については馬主と牧場の個別の協議によって異なるようだが、メジロ牧場吉田牧場の間では、最終的にはメジロ牧場が決めるものとされていた。繁殖に上がったばかりのメジロオーロラの初年度の交配相手として選ばれたのは、メジロ牧場シンボリ牧場などと共同でフランスから購入したフィディオンだった。

 フィディオンの競走成績は、通算8戦2勝に過ぎない。主な勝ち鞍がボワルセル賞・・・という彼は、英国ダービーに出走してはいるものの、グランディの8着に敗れており、競走馬としては二流のまま終わったといわなければならない。しかし、シンボリ牧場メジロ牧場の意を受けてヨーロッパへ渡った野平祐二調教師は、この馬に種牡馬としての資質と未知の魅力を見出し、ダンディルート等と一緒に日本へ連れてきた。

 こうして日本へ連れてこられたフィディオンだったが、彼はとんでもない気性難を持っていた。輸入したての頃には、牧場の従業員に2人立て続けに大怪我を負わせた。メジロ牧場シンボリ牧場ですらこの馬の扱いには一時はサジを投げ、供用を中止しようとしたほどだった。

 しかし、種牡馬としてのフィディオンは、野平師の目にかなっただけのことはあり、その子供たちはなかなかの実績を残した。そう多くない産駒の中からは、京都記念金杯優勝、天皇賞・春宝塚記念2着のメジロトーマス、阪神大賞典優勝のメジロボアール、ステイヤーズS優勝のブライトシンボリ・・・といった活躍馬が次々と出現した。これらの馬たちの実績をみれば分かるとおり、フィディオンは真性のステイヤー血統であり、天皇賞制覇を最大の名誉とし、強いステイヤー作りを究極の理想に掲げたメジロ牧場にとっては、うってつけの血統だといえた。

 メジロオーロラの初めての種付けに当たっても、第一に意識されたのは「天皇賞を勝てる馬」を作ることだった。種牡馬として実績を残しつつあったフィディオンと交配されたオーロラは、1984年5月1日、やや小柄な鹿毛の初仔を産んだ。この牡馬が、後に「メジロデュレン」と名づけられ、「メジロ軍団」に初めての牡馬クラシックをもたらすことになる。

 ところが、メジロオーロラは初仔であるメジロデュレンに対して冷たかった。メジロオーロラ自身、気性に問題のある馬だったが、初子であるメジロデュレンに対しては、乳を飲ませることすら嫌がった。幼いメジロデュレンが乳を飲むために母のもとへとすり寄っていくと、メジロオーロラは座り込んでメジロデュレンが乳を飲めないようにしてしまう。メジロデュレンは、生まれながらにして母に疎まれるという悲しい運命を負っていた。

 それでも無事に成長したメジロデュレンは、当歳の10月にはメジロ牧場に移され、育成のための調教を積まれるようになった。狂気の血を持つ父、子をも拒む激しさがある母。そんな両親の血と気性を受け継いだメジロデュレンも、この頃から既に気性の激しさを見せていた。しかし、それと同時に、彼は当歳離れした勝負根性・・・他の馬たちに決して負けまいとする強い意思を持っていた。子別れ以前から母に突き放されて育った幼いメジロデュレンは、他の同期よりもはるかに早く、ひとりで生きていくための覚悟を身につけていたのかもれない。