『情熱が人を動かす』

 メジロオーロラ吉田牧場にやってくることになったのは、吉田堅(かたし)牧場の先代・吉田隆氏の情熱のたまものだった。

 吉田牧場メジロ牧場の仔分けを始めたのは、1968年ころだった。すると、彼の牧場の仔分け馬からはメジロファントムメジロハイネ、そして中山大障害を勝ったメジロジュピターが次々と重賞を勝ち、そして彼らの母はすべてアサマユリ系のメジロハリマだった。

 しかも、吉田牧場から重賞を勝った3兄弟が出たのと時を同じくして、やはりアサマユリ系の繁殖牝馬を預かっていた近所の牧場の生産馬からも、同じように活躍馬が何頭か現れた。不思議なことに、吉田牧場の近所では活力ある発展を見せていたアサマユリ系なのに、他の地域からは活躍馬が出てこない。吉田氏は、いつしか

「きっと、この周辺の土地が、アサマユリ系と相性が良いのだろう・・・」

と確信するようになっていった。

 そう思っていた矢先に、アサマユリ系から生まれ、しかも吉田氏がかねてからその血を導入したいと思っていた種牡馬リマンドを父とする牝馬が、「メジロオーロラ」としてデビューするという噂が飛び込んできた。当時の日高にはリマンドの娘が滅多にいなかった関係で、その血を持つ繁殖牝馬はなかなか手に入らなかった。吉田氏はこの機をおかず、メジロオーロラを引退後に自分の牧場で預からせてもらえるよう、メジロ牧場に対して折衝を開始した。

 もっとも、メジロオーロラ競走馬としてあまり良い成績を挙げられると、「預からせてください」とはいいにくくなる。メジロ牧場自身も生産牧場を持っている以上、優秀な成績を挙げた繁殖牝馬は、なるべく自分の牧場に留めておきたいというのも人情である。・・・しかし、幸か不幸かメジロオーロラは、5歳いっぱいまで走ったものの、1勝を挙げたのみで引退することになった。吉田氏は、メジロ牧場の総帥・北野豊吉氏に

「ぜひオーロラを仔分けの繁殖牝馬として預からせてもらいたい」

と頼み込んだ。すると、北野氏は吉田氏の頼みを聞き入れ、

「そんなに気に入った血統なら、どうぞ連れて行ってください」

と申し出を快諾し、繁殖に上がったばかりのメジロオーロラ吉田牧場へと送り届けたのである。