『名手の魔術』

 この日のレースはフジアンバーワンが引っ張り、非常にゆったりとした展開になった。1200m通過時点で1分15秒2というラップは、前年のメジロマックイーンが制したレースの流れと比べると、実に2秒6も遅い超スローペースだった。

 これは、行きたがる気性のレオダーバンにとっては非常に難しい展開である。しかし、岡部騎手は中団でかかろうとするレオダーバンを懸命になだめながら、じっくりとレースを進めていった。

 岡部騎手は、レオダーバンの本質を中距離馬とみていた。普通に乗ったのでは、3000mの菊花賞では後半までスタミナが持たず、負けてしまう可能性が高い。そこで岡部騎手は、前半はなるべく馬に競馬をさせず、ただ馬を気楽に走らせることでスタミナを温存し、直線の瞬発力比べに持ち込もうと考えていた。

 実は、岡部騎手が長距離レースでこのような作戦をとるのは、初めてのことではない。有名なところでは、クシロキングで勝った1986年の天皇賞・春(Gl)がある。それまで中距離戦線で実績を残す反面、2000mを超えたレースには1度出走して敗れただけだったクシロキングに騎乗した岡部騎手は、2マイルの長丁場を、やはり前半徹底的に「楽をさせる」ことで実質的に1マイルのレースに持ち込んで、見事に盾の栄誉を勝ち取っている。

 もちろん今回のレースにもその作戦を応用した背景には、力のある逃げ馬が不在のため、スローに流れることへの読みがあった。馬の力、距離、展開、騎手。あらゆる要素を瞬時に判断した上で馬の力を出し切れる作戦を選び、120%の成果を得ること。その技術と判断力への信頼こそが、岡部騎手をして日本を代表する名手たらしめた所以である。