『ハイセイコーの子』

 日本競馬の歴史の中で、競馬ファンに「最強馬」として称えられ、あるいは「名馬」として尊敬を集めたサラブレッドたちは少なくない。しかし、競馬ファンのみならず、一般大衆にいたるまでの誰もがその名を知っており、彼らを競馬ファンへと引きずり込むほどのインパクトを残した馬となると、きわめて限られてくる。

 「ハイセイコー」といえば、そんな限られたサラブレッドの中の1頭である。この馬の知名度は、おそらく日本で走ったサラブレッドの中では屈指のものだろう。この馬と並ぶ知名度を誇る馬といえば、長い中央競馬の歴史の中でも、おそらくシンザンオグリキャップくらいしかいないに違いない。

 だが、「最強馬」を問う議論でハイセイコーの名前が挙がってくることは稀である。ハイセイコーの主な勝ち鞍は、皐月賞はともかくとして、他は当時まだ現在ほどの高い位置づけがされていなかった宝塚記念高松宮杯といったあたりでしかない。日本ダービー菊花賞天皇賞有馬記念といった、「最強馬」と呼ばれるには決して避けては通れない大レースにおいて彼は、ことごとく敗れている。

 ハイセイコーが大衆的な人気を集めたのは、南関東競馬という地方競馬の出身である彼が、無敗のまま中央へと攻め上り、日本競馬の権威の象徴である日本ダービーを目指すという図式の中に、高度成長期という時代と、その時代に生きる自分たちを重ねあわせることができたからにほかならない。その日本ダービーで史上最高の支持率を背負いながら3着に破れたハイセイコーだったが、ひとつの夢から覚めた大衆は、その後は彼の強さとともに、弱さも愛するようになった。もしハイセイコーの生まれが5年もずれていたとしたら、あれほどのハイセイコー・フィーバーは起こらなかっただろう。ハイセイコーこそ時代が求めた英雄だった。彼によって競馬の魅力を知ったファンはあまりに多く、そして彼は

「競馬界に特別な貢献をもたらした」

と認められ、顕彰馬に名を連ねている。

 それほどの人気を誇ったハイセイコーは、種牡馬になってからも父の獲れなかったダービーと天皇賞を獲ったカツラノハイセイコエリザベス女王杯サンドピアリスなどを出した。だが、彼の子供たちは、その父の偉大さ、そして特異さゆえに、彼ら自身の戦いも父の影にある程度支配される運命から逃れることはできなかった。

 ハイセイコーが晩年に輩出した傑作の1頭が、父とともに皐月賞父子制覇を成し遂げたハクタイセイである。彼はカツラノハイセイコと並ぶハイセイコー産駒のクラシックホースであり、また1990年クラシック世代を担う1頭としてターフを沸かせた。だが、そんな彼は父とは似ても似つかぬ毛色であっても「白いハイセイコー」と呼ばれ、そしてかつて父が泣いた血の宿命とも戦わなければならない宿命を背負っていたのである。