『さても遠き道のり』

 ウィナーズサークルが初勝利を挙げたのは通算4戦目で、芝からダートへ替わっての未勝利戦だった。時は既に4歳の1月を迎えていた。

 しかも、その後はダートで走ったウィナーズサークルだが、その悪癖は直ることなく、勝利も相変わらず縁遠いままだった。そのことの背景には、郷原騎手の方針もあった。ウィナーズサークルの能力を考えれば、後方から一気に差し切る競馬をやれば、かなりの確率で勝てる。しかし、それでは他の馬を抜くことを嫌がる馬への教育にならない・・・。そして郷原騎手は、あくまでも先行抜け出しにこだわることで、ウィナーズサークルに競馬を教えようとした。彼を信頼して馬を任せた松山師も、そんな方針に対して何も苦情を言うことはなかった。

 しかし、そんな郷原騎手や松山師の苦労をよそに、ウィナーズサークルは相変わらずだった。初勝利の後も2着が続いた彼がようやく2勝目を挙げた時、皐月賞はもう1ヶ月後に迫っていた。これでは、皐月賞トライアルに間に合わない。

 その年のクラシック戦線の出走予定の状況をみると、平場2勝でも皐月賞(Gl)には抽選で出られそうだが、日本ダービーは苦しい情勢だった。デビュー前からダービーを大目標に据えており、今でもダービーに出走できさえすれば好勝負になる、という思いに変わりはない。しかし、そもそも出走できなければお話にならない。

 それまで郷原騎手を信頼し、レース前の指示も出さずに馬を任せていた松山師だったが、皐月賞の直前には、ついに郷原騎手に指示を出した。その指示は、

「とにかく優先出走権(当時は5着まで)を獲ってくれ」

というものだった。