『浦河にて』

 もっとも、その後のヤエノムテキの軌跡は、大多数の種牡馬に比べてはるかに幸運なものである。まず、最初に彼を救ったのは、故郷である浦河の生産者たちであり、ヤエノムテキのために、総額220万円という以前の200分の1以下の規模の小さなシンジケートを結成した彼らがヤエノムテキを引き取った。その後、ホッカイドウ競馬で活躍したムテキボーイを輩出したヤエノムテキだが、それに続く成果を挙げられないまま、第2のシンジケートも解散されると、今度は一般のファンが資金を出しあって作った「ヤエノムテキ会」が名乗りをあげ、彼らの援助を受けながら、彼は現在もなお種牡馬生活を送っている。

 残念ながら、シヨノロマンとの恋を成就させた、という噂は聞かないものの、種牡馬としての彼は、若き日の恋のことは忘れたかのように、のほほんと日々の生活を送っているという。有馬記念で大騒ぎをしたイメージとはかなり異なるが、見学者が牧柵の向こう側から彼のことを眺めていると、彼は時々ひょこひょことやって来て、柵から顔を突き出すことがあるという。見学者が来るとよくて無視、あるいは威嚇してくる馬も少なくないが、彼に限っては、どうやら人間が大好きなようである。新冠にいたころには、一度青草やニンジンを持って近づいてきた「見学者」によってたてがみをむしり取られる被害に遭っているヤエノムテキだが、そうであるにもかかわらず、今も見ず知らずの見学者に愛想を振りまく彼は、本質的に人間が大好きなのだろう(・・・もっとも、親愛の情が過ぎて噛み付いてくることもあるというので、油断してはならない、とのこと)。

 ちなみに、岡部騎手のヤエノムテキ評は、「人間に甘やかされてしまった馬」というものだった。人間が大好きで、その人間に甘やかされて育ったからこそ人間に甘えて好き勝手をやってしまったのだという。「気性難」と恐れられた彼の素顔は人なつっこい馬であることは、もっと一般にも知られていい。また、そんなヤエノムテキだからこそ、彼を裏切るようなマナーの悪い「見学者」は特に許せないものである。

 世代交代のサイクルが非常に早い競馬界においては、オグリキャップを中心にスーパークリークイナリワンといった名馬たちが闘いを繰り広げた時代も、いまやずいぶん遠いものとなってきた感がある。これらの名馬たちが「平成三強」と謳われてしのぎを削ったのは、今から10年ほど昔のことである。あの頃オグリキャップに魅せられて競馬ファンになった若者たちの多くが、競馬ファンとして定着し、日本競馬をファンの立場から支えるようになった。彼らに支えられた日本競馬は、その後多くのスターホースたちが現れたこともあって、不況知らずの繁栄を謳歌し、かつて暗いギャンブルというイメージしかなかった競馬を広く一般に浸透させたことを思うと、あの時代は間違いなく日本の競馬にとってのターニングポイントだったといえる。

 そんな激動の時代に生き、府中2000mで二度Glの栄冠に輝いたヤエノムテキは、実は中距離界の本格派だった。しかし、そんないかめしい肩書はまったく似合わないほどに愉快な馬でもあった。だからこそ、競馬場を去って10年の時が経った今もなお、彼は多くのファンの思いに支えられて浦河にいる。そんな愉快な馬がいたことを、私たちはいつまでも忘れることはないだろう―。[完]

記:1999年4月14日 補訂:2000年8月15日 2訂:2003年4月6日
文:「ぺ天使」@MilkyHorse.com
初出:http://www.retsuden.com/