『ひそかな野望』

 そしてやって来た1991年12月22日、晴天に恵まれた第36回有馬記念(Gl)当日。中山のメインレースの馬柱には、ダイユウサクの名前もあった。「名前もある」―少なくとも大部分のファンにとって、ダイユウサクはただそれだけの存在にすぎなかった。

 1番人気に支持されたのは、大方の予想どおりメジロマックイーンであり、単勝170円の圧倒的人気だった。メジロマックイーンは前年の菊花賞(Gl)、そしてこの年の天皇賞・春(Gl)を制し、さらに2ヶ月前の天皇賞・秋(Gl)では後続に6馬身差を付けて1着入線しながら、進路妨害をとられて無念の18着降着となっている。天皇賞春秋連覇は幻に終わっても、現役最強馬としての実力は、誰もが認めるところだった。

 他方、他の出走馬を見ると、メジロマックイーンに対抗できると思われる馬は見当たらなかった。無敗の二冠馬トウカイテイオー菊花賞レオダーバンという4歳世代の両雄は故障のため欠場していた。他にGl馬は4頭いたが、それぞれ故障明けだったり距離適性が明らかに不向きだったりといった弱点があり、メジロマックイーンの優位を揺るがすには至らない、とみられていた。2番人気が菊花賞4着のナイスネイチャであり、その単勝オッズも870円だったというデータが、この年の有馬記念を顕著に物語っている。

 そんなメジロマックイーン一本かぶりの雰囲気の中で、翻ってダイユウサクを見ると、「買える」材料は何もなかった。出走馬中唯一の7歳馬という年齢。これまでに好走したレースは2000mまでで、前走も勝ったとはいえマイル戦という距離実績。ローテーションは中1週で、秋の臨戦過程は朝日CC京都大賞典スワンSマイルCS→OP特別→有馬記念という過密かつ距離もバラバラとあっては、単勝13790円のブービー人気というのも致し方のないところである。売れたダイユウサク単勝は、内藤師の宣伝にも関わらず、単勝馬券全体の売上のわずか0.6%だった。表彰式に出ることになった場合に備えて正装で中山競馬場に現れた内藤師は、

「先生、いったいどうしたんですか?」

とからかわれてしまった。

 ダイユウサク鞍上の熊沢騎手は、この日が初めての中山競馬場遠征だった。おかげで彼は、競馬場に来る時、なんと道に迷ってしまった。もっとも、熊沢騎手の東京競馬場での初騎乗はGlのオークス当日であり、その時彼は人気薄のコスモドリームで大穴をあけた前歴があった。

 そして、この日のパドックに姿を現したダイユウサクの馬体は光り輝き、過去最高の仕上がりを見せていた。そして、黙然と闊歩する彼の中には、うち秘められた闘志が深く、深く沈殿していた。・・・もっとも、気付く人はめったにいなかったが。